過ぎ越しの祭り、別名、種なしパンの祭りが近づいていました。この時すでに、祭司長や律法学者たちはイエスを殺害することを決意していました。そのような時、12弟子のひとりのイスカリオテのユダが、祭司長たちのところを訪ねてきたのでした。ユダは、裏切りの報酬をもらう約束を取り付け、群衆たちがいないところで、イエスを祭司長たちに引き渡すことを約束しました。さて、イエス様はペテロとヨハネに、過ぎ越しの食事の準備をするように託しました。それは、特定の場所や店の名前ではなく、「町に入ると水瓶を運んでいる男に会うから、・・・・」というものでした。つまり、ペテロもヨハネもどこの場所で食事するか、そこへ行くまで知らなかったのです。つまり、ユダはあらかじめその場所を特定して、祭司長たちに伝えることは不可能だったのです。こうして、イエス様と弟子たちは、全員が無事、定刻に集まることが出来たのです。この過ぎ越しの食事は、イエス様にとって特別の意味を持つものでした。そしてイエス様は、パンを取り、それを裂いて感謝をささげてから、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」、それから、食事の後、杯も同じように祝福され、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」と宣言されました。それ以後、現在まで2千年近くにわたり、全世界の教会で、主の晩餐あるいは聖餐式として受け継がれてきました。そこには裏切り者のユダも同席していました。主イエス様は最後の最後までユダが悔い改める機会を設けておられました。しかし、ユダは悔い改める機会を頑なに拒否してしまいました。なお、弟子たちはこの場に至っても、誰が一番偉いだろうか、という議論をしていたようです。そこで、イエス様は、神の御前で大切なことは、偉くなることではなく、他に仕える者としての生き方であると諭されました。それから、有名な個所ですが、シモン・ペテロに対して、「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけるけれども、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語られました。それに対して、シモン・ペテロは「死であろうと、覚悟はできております。」と強がりを言いましたが、イエス様は、重ねて、ペテロに対して「きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と語られました。それから、イエス様は弟子たちとともに、オリーブ山に行かれました。そこで、イエス様は、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と祈られました。御使いが天からイエスに現れて、イエス様を力づけました。イエス様は、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちるほどでした。そうこうするうちに、ユダを先頭に群衆がやって来て、イエスを捕らえました。彼らはイエスを捕らえて、大祭司の家に連れて行きました。それで、ペテロは、そこいた人に混じって、たき火のわきに腰を下ろしました。すると、女中が、ペテロが座っているのを見つけ、「この人も、イエスといっしょにいました。」と周囲の人たちに訴えました。あわててペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と反論しました。そして、同じようなことが繰り返し起こりました。そして、3度目に、「イエス様を知らない」と、ペテロがまだ言い終えないうちに、鶏が鳴きました。その時、主が振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出して、外に出て、激しく泣いたことが記録されています。そのあと、イエスを罪に定めるための裁判が続きました。今日の個所では、主が振り向いてペテロを見つめられた時の表情が心に浮かぶような気がします。それは、きつく咎める表情ではなく、ペテロの弱さに対して、深く同情する表情であったと思われます。だからこそ、ペテロは激しく泣いたのでした。私たちの主イエス様の憐れみと恵みとを心から感謝し、私たちの主をほめたたえます。
主の御霊は、私たちのうちに豊かな御霊の実を結ばせてくださいます!