この「ローマ人への手紙」から黙示録の一つ手前の「ユダの手紙」まで、書簡集(手紙をまとめたもの)と呼ばれています。書簡集の最初にローマ人への手紙が登場しますが、いつ書かれたかというと、パウロの第3次宣教旅行の途中、ケンクレアというコリントの隣町に住んでいた執事フィベに託して、ローマの教会に送ったと言われています。1章1節~7節は、原語ではひとつづきの文章になっています。1章16節と17節に、ローマ人への手紙全体の中心テーマが記されています。そして、まず、異邦人の罪を指摘しています。異邦人たちは、ユダヤ人ではないので旧約聖書を知らないというハンディがあります。しかし、20節において、創造主は被造物を通して、ご自分の神性や力を明らかに示してこられたので、[真の神を知らなかった]という弁解の余地はないと断言しています。こうして異邦人の罪を明らかに示してから、2章1節~29節において、今度は、旧約聖書を与えられているユダヤ人の罪を指摘しています。こうして、すべての人が罪のもとにあることを示そうとしています。ところで、ローマ人の手紙全体の構成ですが、1章1節―17節が「序文」、1章18節―11章36節までが「教理」、そして12章1節―15章13節までが「実践」、15章14節―16章27節までが「挨拶と頌栄」となっています。大きく二つに分ければ、前半が教理編(理論編)、そして後半が実践編となっています。前半で教理的なこと、後半で実践的なことを記すのは、パウロの手紙の特徴のひとつです。それでは2章ですが、ローマ人への手紙2章1節~29節では、自分たちは創造主を知っている、神の律法を知っていると自認して異邦人たちをみくだし裁いているユダヤ人たちに対して、そのような裁きをする自分たちもまた、あたかも神を知らないような生き方をしていると、パウロは言いきっています。律法を知っていることが、神の前に義とされるのではなく、神の前では律法を行うものが義とされるのである、とパウロは断言します。たとい、律法を知らなくても、律法にかなう行いをしているなら、異邦人であっても、神の前に義とされるのであり、律法を知っているユダヤ人であっても律法に従わないなら、神の前に不義とされるのである。神の前には、ユダヤ人とかギリシャ人とか、○○人ということで、えこひいきれることはないからです。つまり、神の前には、律法を知っているとか、割礼を受けているという、外見上のユダヤ人が真のユダヤ人ではなく、たとい異邦人であっても、律法にかなう行いをしているなら、それは真のユダヤ人であり、神の前に受け入れられる霊の割礼を受けている人なのです、とパウロは言います。そして、逆説的に、自分たちは律法と割礼を知っているとするユダヤ人は、むしろ、その誇りとする律法のゆえに、律法に従わない自分自身を言い訳のできない明確な罪に定めているのです、とパウロは述べています。つまり、実践の伴わない信仰は無益です。信仰と実践はペアです。それで、パウロは、ローマ人への手紙の前半で正しい信仰を伝えるだけでなく、後半で正しい実践のありかたを伝えている、と考えられます。「信仰と実践は表裏一体の関係」ですね。アーメン!
主はあらゆる方法で、私たちに語り、私たちを導かれるお方です!