きょうの第3章ですが、1節~4節において、パウロは3種類の人を紹介しています。ある意味、これは一人の人の成長の過程をあらわすものとして理解できるとおもいます。3種類の人とは、第1に、「生まれながらの人」、第2に、「肉に属する人」、第3に、「御霊に属する人」です。最初の生まれながらの人とは、クリスチャンになる前の人間のことです。不信者や未信者の人です。聖霊による新生の体験をしていない人のことです。次に、肉に属する人とは、イエス様を信じて、聖霊様によって新生した体験を持つ人ですが、生まれつきの肉の性質に支配され、党派心、妬み、争いなどの習性を捨てられないでいる、キリストにある幼子のような状態にあるクリスチャンです。第3の御霊に属する人とは、完全なクリスチャンという意味ではありません。肉の人がクリスチャンとして幼子に留まり続けているのに対して、御霊に属する人は、キリストにある成人として、成長するクリスチャンの事です。そういう意味では、クリスチャンは誰でも、最初は「生まれながらの人」であり、それが、「肉に属するクリスチャン」となり、やがて、「御霊に属するクリスチャン」となるということも出来そうです。ここで、パウロが指摘していることは、クリスチャンであっても、たとい新生したものであっても、肉(古い自分の生まれつきの性質)に訣別して(肉に死んで)、御霊によって生きることを学ぶ必要があるということです。
5節以降、教会の指導者と信徒の関係について記しています。コリントの教会では、ある人たちがパウロにつく、と言い、他の人たちはアポロにつく、と言っていました。つまり、教会の中で、あるリーダーを中心にグループが出来てしまったのです。そこで、パウロは、明確に述べています。確かにパウロはコリントの教会の種まきをしました。そして、アポロがそれに水を注いで成長させました。しかし、大事なのは教会を成長させた神なのです。パウロもアポロも、神の協力者にしか過ぎないのです。土台はイエス・キリストです。パウロとかアポロとかいう人間に土台を置いてはならないのです。
もし、信徒の人が、主イエスを土台として信仰生活(信仰の人生)を築かないで、だれか教会内の人間関係を土台として信仰生活(信仰の人生)を築くなら、やがて、裁きの日には、真実を明らかにする燃える火によって焼かれて真価をためされるというのです。自分をお世話してくれたり、自分に良くしてくれる人につくということは、今の教会でもありうることです。それは肉に属する人の生き方です。そうではなく、御霊に属する人は、自分に良くしてくれるかどうかといった人間的な判断ではなく、神のみこころに従い、キリストのみこころをもとに、何事をも判断できるひとのことを指しています。教会の中の問題は、「肉に属する人たち」によって引き起こされます。その人たちは、「キリストにある幼子」と呼ばれています。なんと、神様の恵みは大きいことでしょう。主はキリストにある幼子たちを、必ず、成長させてくださいます。必要なことは、問題が起こった時、私たちは、肉に属するクリスチャンであり、キリストにある幼子であることを認めることです。そうして、主は、私たちを大人へと成長させてくださる機会であると信じて祈ることです。私たちは、大きく変えられます。
主の御霊がおられるところには自由があります!