1節―13節です。昔、イスラエルの民はエジプトにおいて奴隷として圧迫されていました。その苦しみの中から民が叫ぶと、主はその叫びを聞かれて、主はモーセを遣わして、エジプト王パロのもとからイスラエルの民を救出されました。まず、イスラエルの民はみな、紅海の海を渡りました。紅海の水が真っ二つに裂けて、そこに現われた海の底の乾いた道を通って脱出したのでした。そのことは、水のバプテスマを表しているとパウロは解き明かしています。次に、荒野では、イスラエルの民は、日々、天から与えらえるマナという食物によって養われました。また、岩からほとばしる水によって養われました。天からのマナを食べることは、御霊の食べ物をたべることであり、岩からほとばしる水を飲んだのは、御霊の飲み物を飲むことであった、とパウロは言います。また、その時の岩とはキリストを表していたのだというのです。ところが、荒野においてイスラエルの民は、不従順であり、偶像礼拝をしたために、荒野の生活の中で、大部分は滅ぼされてしまいました。本来の神の目的は、神の民である、イスラエルの民をエジプトから連れ出して、約束の地に導き入れて、そこを相続させるためでした。それにもかかわらず、彼らは約束の地に入ることができず、不従順のゆえに滅びてしまいました。パウロは、これらの出来事は、過去の出来事としてではなく、現在の神の民への警告であり、教訓として書かれているのであると言います(6節、11節)。つまり、神のみことばを知り、御霊の飲み物を飲んでいるクリスチャンであるとしても、自分たちは神の真理を知っているなどと思って、決して高ぶってはならないこと、むしろ、謙遜に、注意深く、偶像礼拝などにかかわらないように心を配ることを勧めています。偶像礼拝は、人間関係や社会への恐れから生じるものです。偶像礼拝を強要された時に、それを断ることは、クリスチャンにとって試練のときです。しかし、パウロはいいます。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えて下さいます。」(13節)。かつて、エジプトの民が紅海という問題に直面した時、紅海を迂回したのではなく、主の御手により紅海が真っ二つに裂けたのでした。同じように、私たちも目の前の試練を避けて通るのではなく、主がその問題の真っただ中に、解決の道を設けて下さると信じて歩むことです。
14節―11章1節では、主の晩餐の食卓と偶像の食卓は両立しないことを示しています。「偶像礼拝を避けなさい」というのです。偶像は架空の神ですから、偶像礼拝を受けているのは、実際には悪霊であり、悪霊に捧げられていることになります。その食卓にあずかることは、悪霊とかかわりをもつことになるので、避けるように勧めています。ただし、市場に売っている肉などは、偶像に捧げられたものであるという恐れはあったとしても、食べてよいです。あるいは、信仰のない人に招待されて、食べ物が出された場合はそれが偶像に捧げられたものかどうかを調べないで食べても良いです。ただし、誰かが、それは偶像に捧げたものですよ、と注意してくれた場合は、その注意してくれた人の良心を尊重して食べないのが良いです。パウロは、具体的な例をあげて、アドバイスしています。いずれにせよ、その基本は、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(31節)です。
主の御霊がおられるところには自由があります!