昨日は、献金のことを「恵みのわざ」と紹介したパウロが、きょうも、もう1章を献金のために費やしています。昨日の箇所で、明らかになったことは、「恵みのわざ」であるということでした。つまり、「恵み」を知らなければ、献金の本質を知らないことになります。恵みは、十字架の救いの福音に預かった者だけが知る極意です。そういう意味では、献金はクリスチャンのみが、その本当の意味を理解できると言えると思います。そうでないと、「お金をとられた」、「寄付をさせられた」、「生活費がとられた」とか、そのような発言が出てくるわけです。
(*一部、報道されているように、旧・統一協会系の教会では、ある意味、心理的な脅迫や誘導により多額の献金を受け取り、献金した人たちが生活に困窮したり、その家族の将来性を奪うような事例があります。いわゆる宗教2世の人たちから献金を返却するように訴えられるケースも起きています。この点については、私たちの教会では、毎週の主日礼拝の中で、献金の主旨を繰り返し説明し、自由意思による献金(自発の献金)であることを確認していますが、それでも、周りの目を気にする日本人の性格からすると、未信者の来会者の方には、はじめから、献金カゴは回さない方が良いのかも知れません)
今日の箇所では、パウロは、献金はお金を失うことではなく、祝福を得ることだと主張しています(6節)。祝福を刈り取ることである、というのです。10節では、神は蒔く人に、タネとパンを与えて下さると保証しています。タネを蒔くことにより、収穫がえられます。同時に、収穫までの期間、パンを与えて下さるのです(10節)。献金は何をもたらすでしょうか?? 10節~15節に記されています。献金は、「義の実を増し加える」、「豊かになり、惜しみなく与えるようになる」、「神への感謝を生み出す」、「聖徒たちの必要を十分に満たす」、「キリストの福音の告白への従順をもたらす」、「神をあがめるようになる」、「あなたを慕うようになる」など、パウロは積極的に、献金の恵みのわざを通して、神の豊かな祝福にあずかることを勧めています。
主の御霊がおられるところには自由があります!