4章は「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します」という、パウロの改まったことば遣いで始まっています。具体的に、3節において「 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」そして、7節で、「 神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです」と明確に述べています。テサロニケは、マケドニア州の州都であり、大都会でした。道徳的には堕落した環境にあり、不品行や不倫などが当たり前のように横行していました。それがあたかも流行の生き方のようでした。その中で、クリスチャンがしっかりと信仰に堅く立つように勧めています。また、兄弟愛については、すでに、テサロニケのクリスチャンたちは模範的な生活をしていたので、その生き方を続けるように勧めています。ところで、テサロニケの教会の中には、イエス・キリストの再臨が近いという話を聞いて、何も手につかず、仕事をやめて、おろおろしている人たちがいました。それに対して、パウロは、11節で、「私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」と命じています。「落ち着いた生活」の反対語は「締まりのない生活」です。「締まりのない生活」とは、テサロニケ人への手紙、第2、3章6節と11節に記されていますが、再臨が近いと言って、浮足立って、あれもこれもしなければならない、なんにも手につかず、仕事にも身が入らない、結局、他人に食べさせてもらうような生活です。パウロは、そうではなく、再臨が近いのだから、いつものように、自分の仕事に身を入れて、自分の手で働きなさい、と勧めています。最後に、13節以降で、眠った人のことについて述べています。テサロニケの教会では、まだ、聖書を学び始めて間もなくの人が多かったので、再臨の前に、死んでしまった人は、復活できないのではないかという議論があったようです。それに対して、パウロは、すでに救い主イエスを信じて眠った(死んだ)人々は、必ず、よみがえること、再臨の日に、まず、彼らがよみがえり、復活すること、そして、次に、再臨の日まで生きている人たちが、空中で再臨の主に会うのであると説明しています。再臨の日には、3つのしるしがあります。第1に、号令です。第2に、御使いのかしらの声、第3に、神のラッパの響きです。その再臨の日には、キリストにあって死んだ人が、優先的に、まず、朽ちない身体で復活するのです。それから、キリストにあって生きている人が朽ちない身体に瞬間的に変えられるのです(コリント人への手紙、第1、15章52節参照)。私たちには、キリストにあって眠った人たちとの再会の希望があります。すでに召された人も、地上に残されている人たちもみな、ついには、復活の栄光の身体で再会する時がきます。パウロは言います。他の望みのない人々のように悲しみ沈むことがないようにと言います。私たちには、復活の希望があります。パウロは、最後に、こう言います。「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(18節)。私たちは、キリストを信じる神の家族の一員として、お互いに、神のみこころに沿う生き方を求めて、みことばをもって、励ますように勧められています。
神はみこころに従い、からだの中にそれぞれの器官を備えて下さいました!