へブル人への手紙の7章は、旧約聖書の基礎知識が必要なので、今回は3回に分けて解説します。さて、この7章には、メルキゼデクという人物が登場します。この人物は、創世記14章に登場しますが、それ以外には、旧約聖書中では、ただ一度、詩篇に、その名前だけが出てきます。系図も、履歴も不明です。ある意味、謎の人物です。それで、まず、創世記14章を紹介します。イスラエルの父祖アブラハムの時代でした。当時、アブラハム(当時の名前はアブラム)は、死海の付近に住んでいました。そこはソドムの王たち5人が治めていました。しかし、その上に、ケデルラオメルという王が彼らを支配していました。ユーフラテス川の北側の地、シヌアルの地にいた王たちです。ソドムの王たちは、ケデルラオメルに貢物を治めていましたが、13年目に反乱を起こしました。それで、ユーフラテスの北側のケデルラオメルなど4人の王たちの連合軍が、死海の南側まで南下してきて、ソドムの王たちを打ち負かし、すべての財産を奪い、みなを捕虜として引き上げていきました。そのとき、ソドムにいたアブラムの甥、ロトも全財産を奪われ、家族全員が捕虜となり引いて行かれました。その報告が、アブラムに届きました。アブラムは夜を徹して追跡し、夜襲をかけ、ケデルラオメル王らの連合軍を打ち破りました。その時の出来事が記されています。創世記14章14節からです。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ』。アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」(創世記14章14節~20節)。ここに、シャレムの王メルキゼデクが、突然、登場します。彼はシャレム(平和)の王であり、メルキゼデク(義の王という意味)という名前でした。彼は、天と地を造られた、いと高き神の祭司であり、パンとブドウ酒をもって、アブラムを出迎えました。そして、アブラムを祝福しました。アブラムは、戦利品の10分の1を、メルキゼデクに捧げました。メルキゼデクは、創世記のこの箇所に登場しますが、系図の記録はなく、その後の消息も記されていません。忽然と現れて、忽然と消えてしまいます。謎の人物です。この記述をもとに、へブル書の著者は、キリストの祭司職について、イエス・キリストこそ、来たるべきメシヤ(王であり、祭司である)であるといいう解き明かしをします。へブル書7章1節~3節、「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」さらに、4節~10節、「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴収するようにと、律法の中で命じられています。ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他の場合は、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。」と展開していきます。つまり、イスラエル民族にとって、もっとも偉大な父祖、アブラハムが、王であり祭司であるメルキゼデクに捧げものをし、祝福をうけたという事は、メルキゼデクという人物が、アブラハムよりも偉大な人物であったことを示していると解釈しています。しかも、あとで、主の律法により定められた幕屋(のちに神殿)に仕えることになったレビ系の祭司たちも、そのときは、アブラムの腰の中にいた(アブラムの子孫としてという意味)ので、レビ系の祭司たちも、じつは、アブラハムを通して、メルキゼデクに捧げものを捧げたことになると解釈しています。つまり、メルキゼデクの祭司職は、レビ系の祭司よりも優位にあると述べています。さらに、11節~16節、「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、―民はそれを基礎として律法を与えられたのです―それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。」と、展開していきます。つまり、旧約時代の律法によって建てられたレビ系の祭司たちは、アロンの直系の子孫が祭司となると定められていました。ですから、祭司となるには、ただひとつ、アロンの直系の子孫であるという系図があれば、祭司としての資格があったのです。一方、祭司も人間であり、必ず、死にます。ですから、祭司職は、直系の子孫へと、次から次へとバトンタッチされる必要がありました。ところが、このメルキゼデクには系図がありません。しかも、レビ系の直系でもありません。まったく、別の祭司職が立てられたということです。メルキゼデクには系図がないということは、肉のいのちのバトンタッチによるレビ系の祭司職とは異なり、メルキゼデクの位に等しい、朽ちることのないいのちの力によって永遠の祭司として立てられたのだと主張します。次に、詩篇110篇4節を引用して、さらに、解釈を展開していきます。7章17節~24節で、次のように述べています。「この方については、こうあかしされています。『あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。』(詩篇110篇4節) 一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、―律法は何事も全うしなかったのです―他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。―彼らの場合は、誓いなしに祭司となるのですが、主の場合には、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」― そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。また、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます」。詩篇を引用して、メルキゼデクの位に等しい祭司職というものがあり、イエス・キリストは、このメルキゼデクに等しい祭司として立てられたのだと述べます。イエスは、死というものを打ち破り、永遠の祭司として立てられたのです。ですから、次のように言うことが出来ます。7章25節~28節です。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。」レビ系の祭司職の場合は、自分自身が罪人であるため、いつも、まず、自分の罪のためのいけにえをささげてから祭司としての働きをしました。しかし、聖なる神の御子であるイエスの場合は、罪の清めが必要ではないので、ただ、一度の贖罪により、全人類の贖罪をまっとうされたのです。だからこそ、イエスは、十字架の上で、最後に、大声で「ことは成就した」と宣言されたのです。贖罪は、まっとうされたのです。そして、律法による犠牲制度の象徴である神殿の仕切りの幕が、上から下まで真っ二つに裂けたのです。つまり、キリストの贖罪により、神と人類との隔ての仕切りは完全に取り払われたのです。キリストはいつも生きていて、父なる神の御座の右におられて、すべての民のために、取り成しをして下さっているのです。ハレルヤ。
恐れてはならない。主があなたとともにおられるのだから!