1節~4節:同族の誰かの牛や羊が迷っているのを見た場合、知らんふりをしてはならず、必ず、同族の者のところへ、連れ戻さなければならないと命じられています。もし、遠くの人の場合は、いったん、自分の家に連れてきて、世話をして、返すように命じられています。それはロバであっても、着物であっても、同じです。見つけたら、必ず、返してあげることが、神の民としての責任でした。また、道で牛やロバが倒れているなら、同族の者を手伝って、起こしてあげるように、命じられています。隣人を自分自身のように愛するという戒めの実践です。1節、3節、4節で、三度も「知らぬふりをしてはならない」と述べています。約束の地で繁栄するにつれて、個人主義がはびこり、共同体の一員であるにもかかわらず、隣人のことなど知らぬふりをすることが当たり前の社会となることを、あらかじめ、警告していると思われます。じつは、出エジプト記23章4節、5節で、すでに、述べられていたことです。こちらには、「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」と記されています。申命記の場合は、「同族」と言われていますが、出エジプト記では「敵」と記されています。これこそ、主のみこころだからです。詩篇22篇24節には、「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」と記されています。主は、決して、知らんふりをするお方ではありません。ですから、神の民も、知らんふりをしてはならないのです。
5節~12節:男は女の服装をすることなく、女は男の服装をしてはならないこと(5節)、:木の上や地面に鳥の巣を見つけた場合、親鳥と雛鳥を一緒にとってはならず、必ず、母鳥を去らせて、雛鳥を取らなければならないこと(6節~7節)、新しい家を建てる時は、屋上に手すりをつけて、万一、屋上から落ちて死ぬようなことがないようにすること(8節)、葡萄畑に2種類の種を蒔かないこと、牛とロバを組にして耕さないこと、羊毛と亜麻糸を混ぜて布を織らないこと(9節~11節)、いつも、創造主を覚えることができるように、着物の四隅に、ふさを作ること(12節)などが命じられています。この箇所は、脈絡がないように見られますが、これを貫く教えは、創造の秩序を尊重するようにとの戒めであると考えられます。
13節~30節:ここでは、身勝手な性的な関係をもつことが禁じられており、創造主が定めた結婚の秩序を重んじるように、具体的な指示がなされています。まず、結婚したのち、妻が嫌いになり、偽りの口実で離婚しようとした場合(13節~19節)、あるいは、夫の訴えが正当であった場合(20節~21節)、不倫の場合(22節)、婚約中の女性が性的な暴行を受けた場合(23節~27節)、婚約していない処女が性的な暴行を受けた場合(28節~29節)、そして、自分の父の妻をめとってはならないこと(30節)などが命じられています。それぞれ、一般的なケースというよりも、ごく稀なケースであると考えられますが、そのような場合でも、創造主のみこころにかなう措置をとるように命じられています。
この章全体としては、創造主から被造物を管理するよう、大切な役割を与えられた本来の人間としての生き方が示されています。人間関係や家畜や小鳥たち、さらには、男女の関係についても、知らぬふりをすることがないように、命じられています。私たちも何か改めるべきことがあるかも知れません。少し、時間をとって考えてみましょう。
1節~9節:犯人が不明の殺人事件が起きた場合の対処法について記されています。約束の地で起こった殺人事件、つまり、罪のないものの血を流した罪は、必ず、正しい方法で贖われなければなりません。それにあたるのは、最も近い町の長老であり、レビ族の祭司の助けを得て、神の前で罪を除き去るのです。
10節~14節:捕虜になった女性と結婚する場合の対処法について記されています。捕虜だからと言って奴隷のように扱うのではなく、創造主が定められた結婚を尊び、それ相応の準備をしてから、結婚するように命じられています。
15節~17節:たとい二人の妻がいて、一方を愛し、他方を嫌っているとしても、長子の権利は、初めに生れた者に与えられなければならないという定めです。長子の権利だけでなく、他のことがらについても、好き嫌いで差別してはいけないのです。結婚は主の御手によって定められたことなので、好き嫌いではなく、たとい嫌いであっても、同じく妻として尊重しなければならないのです。
18節~21節:親に逆らう子は、石で打ち殺される罪になるのです。どのようにしても、親に逆らい、父母に従わない時は、町の長老たちに訴えて、町の人たちみなが石で打ち殺すことを定めています。おそらく、実際に、自分の子を長老たちに訴えて、石で打ち殺された例は、ほぼ皆無であったと思われます。ただ、この戒めによって、町の人たちが、お互いのこどもたちのことに関心をもって見ていた事は間違いありません。その点で、この戒めは、互いの家族に対して、無関心であることを避ける意味があったものと考えられます。
22節~23節:死刑になった犯罪者が、木に架けられていても、その死体を次の日まで木に架けておいてはならず、その日の暮れる前に、木から取り下ろして埋葬するように命じられています。なぜなら、神が呪われた者は、約束の地を汚すことがないように、その日のうちに、埋葬して、清める必要があったからです。
今日の個所は、一見、何の脈絡もないように見えますが、一応、次のように考えると繋がりが見えてきます。争いと戦争、戦争と捕虜、捕虜との結婚、結婚と子供、子どもとしつけ、しつけと刑罰、刑罰と呪い。共通していることは、契約の民として、約束の地において生きるとはどういうことか、いろいろなケースを取り上げて、注意を喚起していると思われます。
さて、最後の23節の「木に吊るされた者は、神に呪われた者だからである」と記されています。新約聖書のガラテヤ人への手紙の中で、この聖句を引用して、とても、重要なことを私たちに教えています。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ人への手紙、3章13節、14節)。イエス様は、私たちの罪の贖いのために、みずから、呪われた者となり、十字架に掛かられました。神に呪われた者となるというのは、神の御子にとって、どれだけの苦痛だったでしょうか。しかし、私たちが永遠の地獄の刑罰から救われて、御国を受け継ぐ者として、御霊を受けることが出来るように、その呪いを身代りに受けて下さったのです。
主に感謝します。主をほめたたえます。きょうも、御霊によって満たし、御国のこどもにふさわしい車の運転、御国のこどもにふさわしい買い物、・・・御国のこどもにふさわしい会話をさせてください。
主は私たちの造り主、救い主、永遠の主です!