1-2節:今日の個所は、「反逆の家」と呼ばれているのは、バビロンに捕囚の民となっている人たちのことです。これまでは、むしろ、南ユダやエルサレムに住んでいる者たちに対して、反逆の民と呼んできました。きょうの個所ではバビロンに捕囚の民となっている者たちを「反逆の家」と呼んでします。何故かと言いますと、バビロンに捕囚の民となっているにもかかわらず、頑なに、私たちは神の民である。エルサレムは神殿のある聖都である。もうすぐにでも、バビロンからエルサレムへ帰る日が来ると言っていたからです。3節―16節:それで、主は、エゼキエルに対して、エホヤキン王と共に、バビロンに捕囚となった時の出来事を再現させます。それを見るなら、自分たちが捕囚となった時のことを嫌でも思い出すからです。そして、そのようにエルサレムに残っている者たちも、バビロンの手によって滅ぼされること、剣や疫病や飢饉という裁きがなされることを、捕囚の民に、語りました。17-19節:エルサレムは、裁きにより、飲むにも食べるにも恐怖が襲うことを告げられました。21-25節:捕囚の民の中には、「日は伸ばされ、すべての幻は消える」ということわざが広まっていました。それは、かつて、偽預言者たちが、イスラエルは安泰である、バビロンは攻めてこない、・・・と預言していましたが、結局、「その幻(預言のことば)は消えうせる」ものとなりました。それで、そのような諺が流行していたのだと思われます。しかし、それは偽りの預言者のことであって、主のことばにそれを適用するのは、間違いです。主のことばは必ず実現しますから、その諺こそ、消え失せるのです(23節)。26-28節:それでも、主のことばについて、それはずっと将来のことであって、いまに関する預言ではないという人たちもいました。つまり、あからさまに、主の預言を否定するのではなく、それを自分たちの時代ではなく、はるか将来のことであるということにより、自分たちに適用しようとしない人たちです。あからさまに、預言を否定するにしても、預言を肯定しながら、それを先送りすることにより、結局、いずれの立場をとるにせよ、主のことばを受け取ることを拒否する反逆の民なのです。なぜ、バビロンに捕囚の民となっているものが、「反逆の家」とよばれるかというと、エルサレムに残っている者たちは捕囚を経験していないのですが、バビロンに捕囚となっている民は、すでに、捕囚を経験しているのです。そして、主の憐みにより、彼らのいのちは救われたのです。その経験があるにもかかわらず、まだ、主のことばを頑なに受け入れないことに対して、主は、「反逆の家」と呼んでいるのです。わたしたちも、主のことばをあからさまに拒否することはないと思いますが、その時期を、「いつか将来のことで、今ではない」ということにより、主のことばを真剣に受けとめないことがあるように思います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とのみことばを、遠い将来ではなく、いま、実現させようとされている神のみことばとして受け止めましょう。真剣にうけとめましょう。
清宣教師