ヨシュアは、アブラハムとその父テラのことを、「昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、他の神々に仕えていた。」と紹介しています。私たちの中には、両親が仏教とか神道を信じているので、失望している人がいるかも知れません。しかし、あのアブラハムにしても、他の神々を拝んでいたのです。先祖の罪は、その子や孫など、3代まで及ぶということばもありますが、それでは、いつになっても偶像の神々から離れることが出来ません。しかし、アブラハムやその父テラが偶像を拝んでいたにもかかわらず、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、その子孫も主を信じる民の一員となったです。主の恵みは、途方もなく大きいので、偶像礼拝から引き出して、まことの主を拝むように導いて下さいます。祖父母や両親が救いにあずかるように祈りましょう。
ヨシュアは、14節で、「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい」(14節)と勧めています。主の前で価値あることは、何をしたか、どんな業績をあげたかではなく、与えられたことをいかに誠実に、真実な心をもってなしたかが、評価されるポイントです。ヨシュアは、すべての民に対して、「あなたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える」と語りました。他の人がどうあれ、私たちは主に仕えるという選択をする必要があります。それは、祝福の選択です。間違いのない選択です。
29節で、「ヌンの子ヨシュアは110歳で死んだ」と記されています。人は必ず死にます。葬られる時がきます。しかし、その肉体は土に塵に帰りますが、その霊は朽ちることなく、神のもとへ帰ります。そして、その霊は、朽ちることのない霊の体、復活の体、栄光の体をまとうのです。私たちの人生設計の最後は、天の御国に入ることです。それは、最後であると同時に、永遠の御国における人生の始めでもあります。
この地上の人生と天の御国の永遠の人生を天秤にかけたら、永遠の人生の方がはるかに重いことは明らかです。しかし、ある面において、この地上での人生と永遠の人生をはかりにかけると、釣り合うのも事実です。なぜなら、地上での人生は、永遠に比べたらはるかに短いものなのに、永遠を決定づけるからです。この短い人生の中で、イエス・キリストを信じる決断をするとき、天の御国で永住することが決定づけられるのです。そして、この地上で、その霊においてなすことは、天の御国において、大きな大きな報いをうけるのです。イエス様は約束されました。この地上で、信仰のゆえに、ののしられたり、迫害されるなら、天においての報いは甚だしく大きいのです。この地上での一瞬一瞬が、天の御国での生活を左右するのです。この地上での一瞬一瞬に無駄ということはありえないのです。この地上で肉に蒔くなら、滅びを刈り取ります。しかし、御霊に蒔くなら、天の御国において、大きな大きな実を結ぶのです。
これで、ヨシュア記を終了しました。世代は変わります。この地上に生きる限り、世代の交代は避けられません。西多賀教会も、世代の交代がありました。そして、それは芋虫が脱皮するようなものです。そして、遂には、さなぎとなり、美しく大きな蝶に成長するのです。世代の交代によって、もろもろのものが変わります。もちろん、そのいのちは、変わりません。しかし、そのからだは変わるのです。成長するのです。西多賀教会も、あたらしい人を迎え、あたらしい魂が救われ、共に集まり、共に礼拝する神の家族が、主の恵みによって増え続けるのです。世代の交代により、古いものから、脱皮するのです。西多賀教会のビジョンの中に出てくる「私たち」とは、現在の教会員だけのことではなく、西多賀の地域に住む人、仙台、宮城県に住む人たちを指しています。神のみこころは、この地域のひとたちがみな、神の家族となることです。主の霊が、そのことをなして下さると信じます。
清宣教師