「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。」(1節)このみことばは、私がフィリピンの国際稲研究所にイネの研究のため、単身赴任していた時の思い出の聖句です。滞在期間は6か月でしたが、海外からの若者たちのための宿舎に泊まっておりました。部屋は、西多賀教会の旧会堂くらいの広さで家具はほとんどないので、広々とした感じでした。廊下の天井には数匹のヤモリが張り付いていました。部屋の中に入らないように、ドアの開け閉めには用心しました。ただし、ヤモリと言っても、真っ白くて、ETのような可愛い顔をしています。鳴き声が、姿に似あわず、鋭い叫びで、最初はヤモリの鳴き声とは気が付きませんでした。時々、ドサッと落ちてくる時があるので、要注意です。部屋の外は常時、30度以上の気温でした。研究室は常時、冷房が効いていました。宿舎の部屋も、在室中は、いつもエアコンが作動していました。朝早く研究室に出勤して、夜は、食事後、中国人の若者たちと卓球などをして、8時頃、部屋に帰ります。テレビもなく、ラジオもなく、広い部屋の真ん中に置いてある机で聖書や信仰書などを読んだりの生活でした。10時頃、消灯して、ベッドで眠ります。ところが、真夜中になると、恐れが襲い掛かってきて、霊的な戦いがありました。それで何か役に立つものはないかと、クリスチャン書店に探しに行きました。そこで、この詩篇27篇1節の言葉が書いてあるポスター(英語でしたが)に出会いました。早速、そのポスターを購入して、これを夜寝る前に朗読し、宣言しました。また、この聖句を暗唱して、昼も夜も口ずさみ、1カ月ほどして遂に平安を勝ち取りました。思い出のある聖句です。
ところで、今日の詩篇は「ひとつの願い」という題名がつけられるように思われます。主題は、「主の家に住むこと」(4節)です。
1節~3節は、主にある確信、4節~6節は、ひとつの願い、7節~14節は、主を待ち望む、という内容になっております。4節に記されている、「ひとつの願い」というのは、「第1の願い」を意味しています。イエス様の「まず、神の国と神の義を求めなさい」の「まず」に相当します。ダビデは、まず第1に、主の家に住むことを願いました。主の家に住むとは、神様の御客様になることです。そして、神様のおもてなしを受け、保護を受けることです。そこで、「主の麗しさ」を味わい、「その宮で思いにふける」ためでした。それはこの世から逃げ隠れするためではなく、「今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く掲げられる」(6節)とあるように。主との麗しい交わりを通して、敵の前にかしらを高く上げるためでした。
そして、7節以降、確信と信頼の中で、主を待ち望む祈りをなし、自分の進むべき道を教えて下さい(11節)と願うのです。そして、、主の家で礼拝を捧げ、日々、戦いと不安の中で、信仰の友人たちと共に「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」と宣言するのです。昼も夜も宣言するのです。自分に言い聞かせ、遂には、その確信に到達し、全き平安をいただくのです。
清宣教師