詩篇46篇は、宗教改革で有名なマルチン・ルターが、カトリックの審問を受けて、絶体絶命の孤独の中で、主が支えて下さったみことばです。マルチン・ルターは、この詩篇のみことばをもとに、有名な賛美歌を作詞作曲しました。1529年のことです。
「神はわがやぐら、わがつよき盾、苦しめるときの近き助けぞ。おのが力、おのが知恵を頼みとせる 陰府の長も、など恐るべき。いかに強くとも、いかでか頼まん、やがては朽つべき人の力を、我と共に戦いたもうイエス君こそ、万軍の主なるあまつ大神。あくま世にみちて、よし脅すとも、神の真理こそ、わがうちにあれ。院府の長よ、吠えたけりて迫りくとも、主のさばきは汝が上にあり。暗きの力のよし防ぐとも、主のみことばこそ、進みに進め。わが命も、わが宝も、取らばとりね、神の国はなお我にあり。」
詩篇46篇の歴史的背景としては、セナケリブによるエルサレム包囲とそれからの奇蹟的な解放(第2列王記、18章13節以下参照)があると考えられています。ここでは、神が共におられることこそ、真の平和と安全の保証であるという確信が歌われています。
1節~3節では、「神はわれらの避け所・・・・たとい、どんなことが起こっても。」神への不動の信頼を表明しています。
4節~7節では、[川がある](4節)とは神の豊かな守りの表現です。「万軍の主は我らと共におられる」(7節)という確信が6節の「国々は騒ぎたち、諸方の王国は揺らいだ」という動揺から免れさせています。神の守りによる確信を表明しています。
8節~11節では、神の世界的なご計画の展望が[主]という呼び名で述べられています。主は、戦いをやめさせるお方です。「地の果てまでも」という表現により、キリストの福音により真の平和が現実のものとなることを表明しています。「わたしこそ」(10節)、平和の君である主イエスこそ、私たちの唯一のとりでです(11節)。
私たちは、キリストによる恒久的な平和が確立されることを待ち望んでいます。もろもろの戦いの中で、忍耐と確信を持って待ち望む者です。
今週の主日礼拝のメッセージの主題のひとつでしたが、「この世のすべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために」、私たちは、願いと執り成しと感謝を捧げるように勧められています。それは、私たちが「平安で静かな一生を過ごすため」であると使徒パウロは述べています。(テモテへの手紙、第1、2章1節、2節)。
主イエス様こそ、ただ一人、真の平和をもたらすお方だからです。
安倍首相をはじめ、国々の指導者のために、祈りましょう。
清宣教師