重荷とは 早く手を切り ひたすらに 主だけを求めて 原点復帰
自分の原点を振り返ると、・・・・
大学の文部教官になった初年度は、自分が大好きな研究生活をしていて、どうして、これだけ給料がもらえるのか、不思議であり、感謝以外の何物でもなかった。それが、年を経ていくうちにその感動と感謝の気持ちがだんだん、失われていった。
西多賀教会の牧師になった最初の6年間は無給であった。大学との兼職だったので生活費は大学の給料であった。しかし、牧師として無給ではあったが、ヤコブがラケルを愛して7年間、無報酬でラバンに仕えたときのように、愛と感謝をもって教会に仕えました。
結婚生活もそうでした。初めは相手に仕えることが喜びであり感謝でした。しかし、いつのまにか・・・・
最初は、喜びと感謝で始まったことが、そこに不満や批判が入り込んできて、無感動が支配するようになる。
いろいろなことが、義務となり、重荷となり、それを果たすことがクリスチャンとしての生き方のようになってしまっていた。そうではない。義務でも重荷でもなく、自由に仕えるところに原点がある。真理は自由にする。御霊は自由にする。御父と御子と御霊の関係は自由に仕えることが原点である。
もう一度、重荷や義務とは手を切り、原点に立ち返り、自分自身の自由意思で、主をもとめ、主に仕えます。