「安息日のための歌」という表題がついています。おそらく、バビロン捕囚後、エルサレムに第2神殿が建てられた時代と思われます。
1節―3節では、主への感謝の告白です。朝に夕に祈りを捧げ、十弦や六弦の琴、竪琴をもって賛美する喜びを述べています。
4節―6節では、実際に主がなされたわざ、その御手のわざは大きく、その背後にある御計画は非常に深いことを見て、心が躍るのです。しかし、そんなことをまったく意に介さないものがいます。それは間抜けもの、愚か者です。
7節―9節では、今は悪者が栄えていますが、やがては必ず滅びる者であり、悪者が栄えるのも、結局は永遠に滅ぼされるために過ぎないということを悟るのです。
10節―15節では、神に信頼するものは、主によって高く上げられ、繁栄します。それは、主の庭に植えられた木のように、主の祝福のうちに、繁栄し、多くの実を結びます。しかも、それは年老いてもなお、実を稔らせ、みずみずしく生い茂る木のようです。
なお、余談ですが、3節に出てくる「たえなる調べ」とは、ヘブル語で「ヒッガヨーン」です。これは詩篇9章16節に出てきましたね。グリッサンド演奏を意味すると考えられています。グリッサンド演奏とは、(1)音階を滑るように演奏すること。(2)ある音からある音に向かって、上あるいは下からすべらせるように演奏する奏法。ギターやオルガンのグリッサンドなどはよく知られている。(3)グリッサンド奏法 は、一音一音を区切ることなく、隙間なく滑らせるように流れるように音高を上げ下げする演奏技法をいう。演奏音を指しグリッサンドという場合もあり、演奏音は滑奏音とも呼ばれる。
さて、今日の詩篇92篇を読まれてみて、どのように感じられましたか?
私は、夏の暑さで、萎れている植物のようでしたが、内側から大きないのちの力をいただきました。
「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう」(14節)というみことば、聖霊様のみずみずしい、いのちの水により、内側から満たしていただきました。とくに、高齢者の方には、大きな励ましとなる、みことばですね。
「私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。主よ。あなたのみわざは、なんと大きいことでしょう。」(4節、5節)
クリスチャンは、様々なときに、このことを経験します。家族のこと、健康状態のこと、仕事のこと、経済的なこと・・・、主は私たちのために、導きと守りと解決を与えて下さいます。あなたは、時にかなって、みわざを成し遂げてくださいます。そして、私たちを喜びに導いて下さいます。私は、主の御手のわざを喜び歌います。
「私に新しい油を注がれました」(10節)。これこそ、私が最近、願っていることです。クリスチャンとして、創造論宣教師として、アップグレードするためには欠かせない「新しい油注ぎ」です。その願いに対する、あたかも主からの応答のようなみことばです。ですから、このみことばを、何度も宣言しました。「あなたは私の角を野牛の角のように高く上げ、私に新しい油をそそがれました。」。皆さんも、一緒に、宣言しませんか。
清宣教師