105篇の全体を通じて、主題は、主のみわざを心に覚えて、主に信頼し、主を賛美するようにと招いています。そして、アブラハムの選びとアブラハムへの主の約束から始まり、イスラエルの民の歴史における主のご計画を、とくに、エジプトへの寄留、さらに、エジプトからの脱出における主のご計画の確かさを浮き彫りにしています。最後に、主はアブラハムへの聖なる約束のことばを決して忘れてはおられないこと、そして、神がイスラエルの民を約束の地へと導かれた目的は、その地において、主の教えを守る、主の民として全世界に証しすることであったことを指摘しています。
1節―7節は、聖なる主がどれほど真実な方であり、イスラエルのために奇しい御業をあらわされたお方であるかを思い起こし、アブラハムの末であるものたちは、主に選ばれた者として、この主の御名を諸国の民に告げ知らせる使命があることを思い起こさせています。
8節―15節は、「わたしはあなたがたの相続地として、あなたにカナンの地を与える」という最初の神の契約は、イスラエルの父祖であるアブラハムとの間で結ばれたこと、そして、それはイサク、ヤコブへと引き継がれたこと、その頃は、イスラエルの民の数は少なく、彼らは国から国へと流浪の旅をする民であり、滞在先では、「寄留の他国人」にしか過ぎない存在であったことを回想しています。それにもかかわらず、主は、この小さな「寄留の他国人」という、不安定な身分にもかかわらず、主権をもって、その地を支配する王たちを戒めて、イスラエルの民に危害を加えることを許しませんでした。
16節―24節は、主なる神は、カナンの地にいたイスラエルの民を、エジプトの地に移住させることにしました。そのために、あらかじめ、ヨセフを兄弟たちの手によって、エジプトに奴隷として売り渡させました。そこで、ヨセフは無実の罪にもかかわらず、様々な苦しみに遭いましたが、ついに、ヨエジプトの宰相に任じられました。こうして、主のご計画は整い、いよいよ、カナンの地にいたイスラエルの民を、大飢饉によって、いわば強制的にエジプトの地に移住させました。そのとき、イスラエルの民は総勢、70名(創世記46章27節参照)にしかすぎませんでした。そうして、このエジプトの肥沃な地で、イスラエルの民を養い、200万人を超えるまでに成長させました(24節)。
25節―36節は、今度は、主はエジプトの地にいたイスラエルの民を、本来の相続地であるカナンの地に移住させるときがきました。そのために、主は、イスラエルの民が、エジプトの王やエジプトの民たちに憎まれて、奴隷として扱われることを許されました。こうして、イスラエルの民は、主なる神に救いを求めて叫び始めました。一方、あらかじめ、エジプトの王宮で育ち、その後、逃亡者となり、荒野で羊飼いをしていたモーセを、ご自分の働きのために、イスラエルの民の解放者として、召し出しました。そして、このモーセとアロンという二人の主の器によって、エジプトの地で、10の裁きを行い、最後はエジプトの初子を断つという恐るべき裁きにより、イスラエルの民は、エジプトの地から追い出されるようにして、脱出を果たしました。
37節―45節は、主なる神は、イスラエルの民がエジプトを出る時、イスラエルの民が、正当な報酬を受け取ることができるように、エジプトの民たちの心に恐れと好意をもたせて、イスラエルの民に多くの金や銀などの贈り物を与えるように計らいました。そして、カナンの約束の地に入るまで、主は、イスラエルの民たちを、ある時は天からのパンで、ある時は岩からでる水により、養われました。そして、その途上、イスラエルの民を滅ぼそうとして出てきた王たちを打ち負かされ、逆に、その地をイスラエルの民に与えられました。そして、最終的にカナンの地に導き入れられました。主なる神の目的は、ご自分の民を、神のみことばを守り、神のみこころを行う証しの民とするためでした。
主は、約束されたことを誠実に守られるお方であるということを学びました。主は、この世の神(サタン)、あるいは、罪の奴隷となっていた私たちを、この世の神の奴隷、あるいは、罪の奴隷という状況から、救いだし、御国を受け継ぐ神のこどもとしてくださいました。それは、私たちが、地の塩、世の光として、神のこどもとして、神の教えを守り、神のみこころを行うためです。
ところで、私なりに、特に教えられた箇所は、41節でした。『主が岩を開かれると、水がほとばしり出た』という記述です。岩から水が出るというのは、普通は考えられないことです。新約聖書によれば、この岩は、イエス様のこと、水は御霊のことを表しているという解き明かしがなされています。イエス様のうちから御霊の流れがあふれ出てくるというのです。岩というのは固くて水が出てくるようなものではありません。だから、私たちは、いかにも水がありそうな所を求めて捜し歩いているのではないかと思います。御霊に満たされた聖会や賛美や説教などのある場所、そこに御霊の満たしを求めているのではないかと思います。私も、幾たびか、世界的に有名なメッセンジャーの聖会に参加しました。でも、考えてみると、岩というのは、水が湧いてくるのを、絶対に期待できないところです。私たちの想定から最も離れたところ、堅い岩、そこから御霊の水がほとばしり出てくるというのです。堅い岩、ある意味、どうしようもない不信仰で固くなった私たちの心を表していると思いました。しかし、主イエス様を信じる、からし種のように目に見えないほどの小さな信仰により、その堅い堅い岩が裂けて、御霊の水がほとばしり出てくるのです。そう教えられたように感じました。私の頑なな、堅い不信仰の岩が裂けるのです。そこから、御霊の水がほとばしるリバイバルの時です。「主が岩を開かれると、水がほとばしり出た。水は砂漠を川となって流れた。これは主が、そのしもべアブラハムへの聖なることばを覚えておられたからである。」(41節、42節)。
仙台は、今日も猛暑の日、七夕の祭りがおこなわれていますが、あなたは渇いていますか?渇いている者は幸いです。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」(ヨハネの福音書、7章37節、38節)。
清宣教師