ここには愛するエルサレムの町やユダの民が、受けるべくして受けた神の厳しい裁きによってどうにもならない状況にあることを嘆いています。しかし、同時に、それは祈りとなって神に捧げられています。神は、シオン(エルサレム)を裁き、ユダの町々を打ちこわし、燃える怒りをもってユダの民を砕かれました(1節-5節)。そして、ご自分の幕屋(神殿)さえも投げ捨てて、荒れたところとなしました。エルサレムの城壁も徹底的に破壊されて形もなくなりました。エルサレムを守る者は誰もなく神からも見捨てられたのです。律法もなく、預言者への主からの幻もなく、長老たちも、ただ、失望と落胆と悔恨で座り込むばかりです(6節―10節)。神の裁きの前には、ただ、涙するしかないのでした。「私の目は涙でつぶれ、私のはらわたは煮え返り、私の肝は、私の民の娘の傷を見て、地に注ぎ出された。幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている。彼らは母親に、穀物とぶどう酒はどこにあるのか、と言い続け、町の広場で傷つけられて衰え果てた者のように、母のふところで息も絶えようとしている。」(11節―12節)。13節―17節では、このような悲惨を招いた理由と周囲の国々の評価をつげて、18節―19節において、どのようにすればよいかを告げています。「主は企てたことを行ない、昔から告げておいたみことばを成し遂げられた。滅ぼして、容赦せず、あなたのことで敵を喜ばせ、あなたの仇の角を高く上げられた。彼らは主に向かって心の底から叫んだ。シオンの娘の城壁よ。昼も夜も、川のように涙を流せ。 ぼんやりしてはならない。目を閉じてはならない。夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」。この章の最後の部分、20節―22節は、「主よ。ご覧ください。」ということばで始まるエルサレムとユダの民の祈りとなっています。確かに自分たちの罪の結果ではあるが、あまりにも酷い裁きに対して、主なる神に憐みを求める祈りです。
今日の個所から、飢餓の中に苦しむ幼児たちのために、執り成しの祈りをするように導かれた人たちがいます。「主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」。そして、具体的に飢餓の子供たちへ食料を送り届ける団体があります。国際飢餓対策機構やブリジス・フォー・ピース(BFP)のクリスチャンの団体です。いままた、シリヤの難民の人たちが飢餓に苦しんでいます。シリヤ国内で600万人、シリア国外に逃れた難民は400万人と言われています。このようなニュースを聞く時にクリスチャンとして無力感に襲われますが、主にあって力をいただいて、一緒に、祈りましょう。
主は回復の神です。私が無力感を覚える中で、大きな力をいただいた文章があります。N.T.ライト著(クリスチャンであるとは)の文章の一節です。『イエスがよみがえられた時、神のすべての新しい創造が墓の中から現れ出て、この世界に新しい潜在力と可能性に満ちた世界を導き入れたのである。じつに人間自身が再生され刷新されるという、まさにその新しい可能性のゆえに、イエスのよみがえりは、私たちを受動的で無力な観客にしたままではおかない。私たち自身で身をもたげ、自分の足で立ち上がり、肺に新しい息を吸い込み、出て行って、世界に新しい創造をもたらさずにおかないのである。』
清宣教師