エゼキエル書2章8節―3章3節までは、蜜のように甘い巻き物の幻です。「巻き物を食べる」ということに関して、文字通りに捕える理解と共に、ある人は、「みことばを聴くこと」と理解しています。それも聞いて理解するだけでなく、そのみことばを自分自身のことばになるまで咀嚼(そしゃく)することであると考えています。確かに、私たちに適用するなら、1日を始めるのに、みことばで腹ごしらえをする必要があることを教えられます。ただ、エゼキエルの場合は、本当に、みことばの巻き物を食べたということも充分、考えられます。
3章4節―11節は、エゼキエルのつらい任務に対する主からの励ましです。エゼキエルが主から託された任務は、外国語を話す民たちに語るのではなく、同国人に語るという使命でした。ところが彼らはまったく聞く耳を持たない人たちでした。だから、主は聞いても聞かなくても、語りなさいと命じられました。また、彼らの顔は鉄面皮であるが(7節)、主は、エゼキエルの額を最も堅い金剛石のようにするから、彼らの顔にひるむなと励ましておられます。
12節―15節は、捕囚の民の所へ戻ることになります。エゼキエルは、抵抗できない強い力によってケバル川のほとりの自分の民のところへ連れ戻されました。そこで、7日間、茫然としておりました。
16節―21節は、7日後に、エゼキエルに主から再び、主のことばが臨みました。それは見張り人の役目でした(17節)。見張り人の役目は、城壁の上の見張所に立って、いつも周囲に注意を払い、外敵の襲来があれば、いちはやく城壁内の町の住民に敵の来襲を知らせることでした。預言者の役割は、見張り人のように、主がみことばによって民たちに霊的な危機を告げられたならば、それを直ちに正確に告げなければならないという責任がありました。もし、告げなければ、その責任は預言者自身が問われることになります。しかし、民たちに知らせても、民たちがそれを適当に聞き流して滅びるなら、それは預言者の責任ではなく、民自身が責任を問われることになります。
22節―27節では、エゼキエルが、谷間に出て行くと、主は、ご自身の栄光を再び現されました。そして、しばらくの間、エゼキエルは話すことが出来なくなるので、時が来るまで自宅で待機するように命じられました。
さて、クリスチャンもまた、見張り人としての役目を与えられています。イエス様は、私たちの役目を、「地の塩」、「世の光」として表現されました。地と分離するのではなく、地の塩として溶け込み、真理のみことばで味付けすることです。あるいは、世の光として、真理のみことばの光を隠すのではなく、世において照らす役割です.
それではまた。
清宣教師