バビロンにいる捕囚の民となっているユダヤ人たちは、自分たちが、このような捕囚の恥辱を受けたのも、また、エルサレムが災難を受けようとしているのも、先祖たちの罪のせいだと考えていました。それで、「父が酸い葡萄を食べたので、子どもの歯が浮く」ということわざを、しきりに用いていました(2節)。このように、先祖の罪のせいで自分たちが罰を受けているという理解では、自分たちの罪をまともに悔い改める心など湧いてきません。むしろ、先祖たちの罪を自分たちに負わせるのは不当ではないか、という神に対する不満が出てきます。そこで、主はエゼキエルを通して、主のことばを伝えました。
3節―20節で、繰り返されていることは、人が死ぬのは彼自身の罪のせいであり、先祖の罪のせいではない、ということです。
もし、父が公儀と正義を行ったなら、父がその報いを受ける(5節―9節)。しかし、その子が無法のものであり、罪を犯すなら、その罪のゆえに、その子が罪の責任を問われる(10節―13節)。さらに、その子が、公儀と正義を行うなら、その子は父の罪のために死ぬことはなく、良い行いのゆえに報いをうける。しかし、その父はその罪のゆえに責任を問われる(14節―18節)。父は父自身の生き方について責任を負い、子どもはこども自身の生き方について責任を負うものである(19節―20節)。
後半は、本人が悔い改めた場合についての主の裁きについて述べています。たとい悪者でも、罪を犯したすべての罪から立ち返り、公儀と正義を行うなら罪の責任に問われることはない(21節―23節)。一方、公儀と正義を行っている者が、主から遠ざかり、悪者がするような忌み嫌うべきことを行うなら、その罪の責任が問われる。正しい人が正しいことから遠ざかり不正を行うならその罪を問われる(24節―26節)。一方、自分がしている悪事を悔い改めて正義と公儀を行うなら罪の責任を問われることはない。そのことで、あなたがたは主の態度は公正でないと主張する。しかし、公正ではないのはあなたがた自身である。(27節―29節)。
主は、決して悪者の死を喜ぶお方ではない。むしろ、悪者が悔い改めて、罪を離れて生きることを心から願っている。だから、イスラエルの家よ、あなたの今の行いを悔い改めよ。そして、背きの罪をあなた方の中から放り出せ。私はあなたがたに新しい心をと新しい霊を与える。わたしは誰が死ぬのも喜ばない。だから、悔い改めて生きよ(30節ー32節)。
主は悔い改めを勧めると同時に、新しい心、新しい霊を与えると約束しておられる。主は人に悔い改めを勧めると同時に、それが出来るように聖霊も与えて下さったのである。
清宣教師