昨日は、1日1章を配信するのを忘れてしまいました。申し訳ありませんでした。夜の祈祷会が終わり、司会の務めを終えてホッとしたあと、まだ、1日1章を配信していないことに気付きました。そこに震度7強の熊本地震のニュースが入りました。創造論宣教で以前、お伺いした熊本県の熊本市と水俣市のふたつの教会の牧師先生にメールを入れました。幸い、どちらの教会の方もみなさん、ご無事のようでした。熊本市の教会の先生は前日、手術を終えたばかりなので、心配でしたが、病院の中で大丈夫でした。それで、きょう、二つの章を配信させていただくことにしました。
32章は、エジプトについての6番目と7番目の預言です。この預言は、当時の泣き女が葬儀の際に雇われて歌った哀歌の形式をとっています。32章16節に、そのことが記されています。エジプトの王パロは、自分をライオンに例えていたので、ここでも、「諸国の民の若い獅子よ。」と呼ばれています。また、29章でも触れていましたが、「鰐(竜)」にも例えられています(2節)。パロはこれらの例えにふさわしい強大な権力をもっていました。しかし、バビロンの王ネブカデレザルによって、滅ぼされるのです。それは、主のさばきのわざでした。それを強調するように、「わたしは」(3節、4節、8節9節、10節、12節、13節、14節、15節)と繰り返し、述べています。なお、エジプトは、刺殺された者たちや割礼をうけていない者たちと共に横たわるのです(21節)。そこには、アッシリヤ、エラム、メシェク、トバルなどの、かつて地上で恐れられた国々の人たちが横たわっていました。『割礼を受けていない者』ということが強調されていますが、エジプト人は割礼を重んじていたので、割礼のない者たちを軽蔑していました。しかし、主の裁きにより、死者の世界では、エジプト人は、その割礼のない民たちと共に住まわせらえれているのです。
33章は、見張り人としての預言者の務めについて記さしています。33章1節―9節は、すでに3章16節―21節で語られた「預言者の務め」が語られています。また、33章10節―20節で語られた内容は、すでに18章で語られた「悔い改めの道」について繰り返されています。ここでも、預言者は国の見張り人であり、霊的な意味での見張り人であることが明らかにされています。そして、主のみこころは、悪人が死ぬことではなく、悪人が悔い改めていのちを得ることを喜ばれるお方であることを再度、強調しています(11節)。
21節では、エルサレムから逃れた者がバビロンにやってきて、エルサレム陥落の報告をもたらしました。その日付は、エゼキエルたちが捕囚になって12年目の10月5日となっていますが、一部のヘブル語写本では「11年目」となっています。エルサレムの陥落は11年目の4月9日です(第2列王記、25章2節―4節参照)。エルサレムからバビロンまでは、通常、4ヶ月と考えられており、もしも12年目となると、バビロンから1年半かかって伝えられたことになります。むしろ、11年目の方が、エルサレムの陥落から6カ月後ということになり、戦後の混乱を考えると、妥当な期間となります。エゼキエルは、主の預言(エゼキエル書24章27節参照)の通りに、エルサレムの陥落が伝えられた時、再び、主によって口が開かれ、主のことばを語り始めました。その内容は、新しいイスラエルの誕生は、エルサレムに残されている者たちではなく、バビロンの捕囚の民から起こることを知らせるためでした。しかし、バビロンお捕囚の民たちも、表面的にはエゼキエルを敬い(30節参照)、そのことばを美しく歌われる恋の歌のように聞いているように見えましたが、実は、それを聞くだけで実行しようとはしていない、という大きな問題があることを指摘しました。一人の預言者がいたのです。あとはそれを聞いても実行しようとしない者たちの責任であることを明らかに示しました(31節―33節)。
清宣教師