きょうは、有名な場面ですね。少年(?)ダビデが、巨人ゴリアテを打ち負かすことが記されています。

敵のペリシテ人の中に、特別に大きい巨人がおりました。しかも、力も強く、動きも鋭い、勇敢な戦士でした。ただ体が大きかったのではなく、訓練を積んだ百戦錬磨の勇士だったのです(1733節参照)。ですから、ゴリアテが、ただひとり、居並ぶイスラエルの兵士たちの前に、姿をあらわして、一騎打ちをしようではないかと持ちかけて、イスラエルの民を威嚇した時、だれも、それに応えようとするものはいませんでした。毎日、姿を現しては、威嚇するのですが、イスラエルの陣地の中は、沈黙あるのみで、だれも答えようとせず、無視しておりました(24節)。ある日、父親のいいつけで兄たちに必要な物を届けに来たダビデがこの光景を目にしました。ダビデは、すでに、油注がれていましたから、信仰の告白をしました。それを聞いた者たちが、サウル王に知らせました。それで、サウル王の前に呼び出されたのですが、サウルは、最初、あまりにも若いのをみて、引き留めようとしました。しかし、ダビデは、羊の群れを守るために、主の力によって熊や獅子と闘い、何度も羊を救い出したという証をしました。それで、サウルは、ダビデがイスラエルの代表戦士として、ペリシテの代表戦士ゴリアテと戦うことを許可しました。さらに、サウルは自分が身に付けていた鎧、かぶと、剣などをダビデに与えましたが、ダビデには初めてのことであり、かえって、歩くのにも邪魔であることに気付きました(39節)。それで、ダビデは、サウルの申し出を断り、いつもの羊飼いの軽装になり、自分の杖をとり、川から滑らかな石を5つ選んで、投石袋にいれました。ペリシテ人ゴリアテの前に進んで行きました。ゴリアテは、ダビデが美少年であったためか、すっかり、油断したようです。そこで、ダビデは素早く行動し、ゴリアテに走りより、投石袋からひとつの石をとりだし、石投げでゴリアテの額をめがけて投げつけました。ただの一つの石でしたが、ゴリアテの額に命中し、ゴリアテは、うつぶせに倒れました。ダビデは剣を帯びていなかったので、ゴリアテに駆け寄り、ゴリアテの剣を抜いて、ゴリアテの首をはねました。この光景をみていたペリシテ人は、あまりにも一瞬の出来事であり、絶対にあり得ないことが起こったので、突然の恐怖に襲われて、その場から逃げだしました。イスラエルの陣営の人たちは、これをみて、ペリシテ人を追撃しました。

このことは、少年でも、神の御手の助けによって、巨人ゴリアテに打ち勝つことが出来た、ということを示してはいますが、ダビデは、あらかじめ、神の選びの御計画の中にあったということを見逃してはいけないと思います。ダビデは、野において羊たちを守るために、獅子や熊と闘いました。羊たちのいのちよりも自分のいのちが大切だとは言わないで、父から与えられた、羊を守るという仕事にいのちをかけました。つまり、ダビデは、自分の使命を果たしたといえます。使命とは「命を使う」と書きます。さらに、サムエルを通して、あらかじめ、油注ぎを受けていました。戦場に導かれたのも、主の御計画でした。すでに、ゴリアテが同じ口上をのべて、40日が過ぎていました。40日が過ぎても、イスラエルの陣営の中には誰も応答するものがいなかったので、この日、ダビデが応答したとき、少年であっても王の前に伝えられ、サウル王の許可が出たのだと思います。

私たちもいま与えられている仕事を忠実に果たす中で、主に用いられる器として磨かれていくのだということです。いま与えられている使命に、忠実であるか、その生き方が問われています。主は、うわべではなく、心を見られるのです(167節)。忠実であるなら、神の時に、神の御計画の中で、用いられます。なお、ただ1個の石でゴリアテを倒すことが出来たのは、神様の恵みであることを示しています。人間の努力は、確率の問題になりますが、神の恵みは確率の問題ではなく、ただの1個で充分(あまりあるもの)なのです。

清宣教師