1-5節:ダビデは、全イスラエルの精鋭3万を率いて、神の箱を迎えようとして、大きな喜びをもって出かけました。そして、神の箱を新しい車に乗せて、ダビデ自身は主の前で力の限りを尽くして踊りました。

6節―11節:しかし、新しい車を御していたウザとアフヨのふたりのうち、ウザが神の箱に手を伸ばしてそれを抑えました。牛が神の箱をひっくり返しそうになったためでした。しかし、主はこれを、ウザによる割り込みの不敬の罪としてウザをその場で打たれました。そもそも、牛車に乗せて神の箱を運ばせたのはペリシテ人でした。本来、神の律法には、神の箱の運搬方法が記されていました。厳重な警告も記されていました。しかし、ダビデも司祭たちも気づかなかったようです。「割り込み」と書いてあるところから、本来、主なる神様には御計画があったようです。牛がそれをひっくり返そうとしたのも計画のうちにあったものと思います。しかし、ウザは、自分の判断で、そこに割り込んで神の箱を押さえてしまいました。ダビデは、ウザが打たれたことにより、恐れました。そして、主の箱を、近くのオベデ・エドムの家にまわしました。その結果がどうなるか、ダビデは見守っていました。その結果、オベデ・エドムの家は、呪われるどころか、豊かに祝福されました。

12節―15節:そのことを聞いたダビデは、再び、ダビデの町へ神の箱を迎え入れることにしました。この間、ダビデは、なぜ、主はウザを打たれたのか、祈りつつ考えたようです。そして、今度は、律法に記されているとおり、牛車ではなく、レビ族のケハテ族の肩に担いで運ばせました。ダビデは、うれしくて、うれしくて、飛んだり跳ねたり主の前に力の限り踊りました。

16節―19節:しかし、サウルの娘でありダビデの妻であったミカルは、この行列には加わらず、宮殿の窓から眺めていました。そして、ダビデが主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、ダビデを心の中でさげすみました。ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえを、主に捧げたのち、民たちと喜びを分かち合うために、民を祝福し、民全部に御菓子を分け与えました。

20節―23節:ダビデが家族を祝福するために家に帰ってくると、ミカルがダビデを迎えて、ダビデの行動は恥ずかしいものだと非難しました。しかし、ダビデはこれに対してミカルを戒め、万軍の主を喜ぶことに口を挟むミカルと決定的な亀裂が生じました。こうして、ミカルは、死ぬまでこどもはありませんでした。

今日の個所では、クリスチャンが安易に、世の中の人の方法を採用してしまうとき、聖書に記されているにも関わらず主のみこころに反する行動をとってしまうことがあることを示唆していると思われます。神のみことばに注意深く従うことが必要です。

また、ミカルのように、気位が高いと民と共に行動することができず、庶民の率直な喜びや賛美についていくことができず、非難してしまう恐れがあることを示しています。今でも、同様なことは、気位の高いグループに見られる現象です。パイプオルガンでなければならない、ギターはダメ、ドラムもダメなど、庶民的な喜びや賛美についていくことができず、非難してしまいました。私たちの間にもまだまだ、同様なことがあると思われます。

清宣教師