今日の個所は、イスラエルの信仰共同体としての再出発の場面です。そして、祭司をはじめ、レビ人、民たちが、主のすべての命令と定めとおきてを守り行うという誓いをして、印を押しました。これは、かつて、イスラエルの民がモーセの立会いのもと、シナイ山で主と結んだ契約と同じものであり、契約の更新を意味するものでした。
その中身は、雑婚の禁止(30節)、安息日を守る事(31節)、安息年の規定を守ること(31節)、神殿に置ける礼拝のための捧げ物の規定を守ること(32,33節)、祭壇用のたきぎの捧げ物の規定を守ること(34節)、収穫物の初なり、およ動物の初子の捧げ物の規定を守ること(35~37節)、十分の一の捧げ物に関する規定を守ること(37,38節)、などでした。
この素晴らしい出来事の中で特筆すべきことは、9章ですでに述べましたが、民たちの自発的な決断であったということです。あの仮庵の祭における非常に大きな喜び(8章17節)と神の律法の書の朗読(8章18節)は、民の心の中に、さらなる、主への霊的な飢え渇きを呼び起こし、9章の自発的な聖会と悔い改めを引き起こしました。さらには生活における具体的な方向転換(主を無視する生き方から主を礼拝する生き方への転換)を引き起こすものとなりました。きょうの10章において、民たちは自発的に主なる神との契約の更新を表明し、それを守り行うという誓いに署名捺印したのです。
今日の聖書箇所から教えられることは、私自身、キリストの体という信仰の共同体の一員として、主への飢え渇きを通して、さらなる成長を願い、自発的に主を求める集会が開かれる時がくることを期待しています。いま日本の各地の教会でその兆しが見えています。私たちを取り巻く、あらゆる状況がますます深刻になるとき、ブラックホールのような底知れぬ不安や恐れなどの物凄い力に引き込まれることなく生きるには、主を求めることしかあり得ないという自発的な霊的覚醒の時が来るに違いありません。もっと深く、もっと近く、主を求めるために、民たちが自発的にひとつのこころになって集まるのです。
主を求めます。主よ、来てください。マラナ・タ
きょうも、天国の一日を感謝します。
清宣教師