妻は、先ほど、無事、日赤病院から退院しました。病室は7階でした。きょうも、7階まで、健康増進のため階段であがりました。4階あたりで一息です。ところで、日赤病院には、東北で唯一の機器があり、立体的に画像を投影することができます。造影剤をいれて心臓の冠動脈のすべての流れを調べます。その結果、心臓の冠動脈には国道と県道のようなものがあり、国道はまったく問題なし、県道のところで狭くなっているところがあったのですが、血流はきちんを流れていることが分りました。県道が狭いからと言って工事をすると、国道の流れにも影響するので、県道には手をつけたくないようです。それで、今後1か月間、その狭くなったところが広がるように、4種類の投薬をして、1か月後に、「テクネ負荷心筋核医学検査」というものを行います。これは心臓の心筋の各部位に、どれだけ血流が届いているかを調べるものです。この検査で大丈夫であればとくにステントをいれたりはしないようです。皆様のお祈りを感謝します。
今日の詩篇ですが、私の心にピッタリです。1節~8節を何度も何度も、心を込めて繰り返し読みました。9節‐11節は、外の様子ですね。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くすのに、表題にしるされているように「荒野」にいることが助けになるのでしょうか。神殿ではなく、「荒野」において、主との深い個人的な交わりへと導かれています。「水のない、砂漠の衰え果てた地」においてこそ、たましいは渇き、主を慕い求めて気を失いそうになるのでしょうか。
この詩は、わが子アブシャロムの謀反により、エルサレムでの優雅な生活を追われて、荒野(砂漠)での不自由な生活の中での出来事です。しかし、かえって、心の中は自由にされたのです。エルサレムではなく、いま荒野にいるにもかかわらず、あたかもあのエルサレムの聖所で主を仰ぎ見るように、主を仰ぎみることが出来たのです。主の栄光と臨在のある所、そこが聖所となるのです。主の臨在の祝福のゆえに、ダビデは両手を上げて、主の御名を賛美し、祈りました。喜びに満ちあふれて賛美するのです。
主イエス様は、あえて、人里離れた荒野に出かけて、主との交わりの時間を過ごされました。私たちも、教会で主日礼拝をすることが出来る幸いなときだけでなく、教会ではなく、仕事の合間の荒野において礼拝しなければならない時もあります。あるいは、孤独の荒野において礼拝しなければならない時もあります。病院の荒野で礼拝する時もあります。そんなときにも、主の臨在と祝福があります。荒野であれ、どこであれ、「霊とまこと」をもって礼拝する、その時が来ています。
「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。」(1節)「水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私も身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」(2節)「私は、あなたの力を栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。」(3節)。
いま、あなたがいるところで、あなたの心が主に向けられますように。荒野の中で、主の力と栄光を見ることが出来ますように。主の喜びが、きょうも、あなたのうえに、豊かに注がれますように。
清宣教師