ある注解者は、この詩篇71篇に、「信仰を杖とする人生」という表題をつけています。ユダヤの伝承では、捕囚の時に歌われた歌と言われていますが、詩人は老年であり、多くの苦しみを経てきたようです(9節、18節)。そして、いまもなお敵の中にあります。しかし、若い時からの神の守りを根拠として、神に信頼し、神に祈る姿勢を貫いています。

長い詩なので、内容を5つに区分します。

1節―3節は、神への信頼の祈りです。「私の住まいの岩(安全な場所)となり、強い砦となって、私を救って下さい。あなたこそ私の巌、私のとりでです」。

4節―8節は、若い時からの救いの告白です。「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です」。

9節―14節は、老齢の身の苦しみの訴えです。「年老いたときも、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください」。

15節―20節は、信仰の生涯を貫く決心です。「私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます」。

21節ー24節は、賛美と誓いです。「あなたをほめたたえます。わが神よ。あなたのまことを」。「私の舌もまた、一日中、あなたの義を言い表しましょう」。

クリスチャンも、ある人は短い人生ですが、ある人は長い人生を送ります。老年になり、平安のうちに過ごすことが出来る人は幸いですが、また、この詩篇の詩人のように、老年になってから、厳しい試練を受ける人もいます。カルヴァンは、この詩はダビデが息子アブシャロムの謀反を受けたときの詩であると考えています。旧約聖書の中で、老年まで生きている人は、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、サムエル、ダビデなどを思い出します。これらの人たちの人生を思い出してみると、それぞれ、みなちがいます。やはり、私たちの人生は、人によって大きく異なるようです。しかし、みな、老年になっても、それぞれの苦悩がありました。ですから、それぞれの人生は異なっても、共通するのは、「信仰を杖とする人生」であったことに間違いないようです。

私もまだ71歳ですが、この詩篇の作者に共感できるところがあります。この作者と共に、心を込めて「あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げて下さいます」と告白するものです。青年のとき、壮年のとき、リバイバル(聖霊により、信仰が再び生き返る経験)を求めましたが、老年になるとなお一層つよくリバイバルを求めなければならない状況があります。肉低的な衰え、精神的な衰えの中で、信仰のリバイバルが必要です。創世記221節に、「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられ・・・」と記されています。息子のイサクが成人している時ですから、まさに、アブラハムの晩年に、人生で最高の試練がやってきました。しかも、聖書によれば、「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられ・・・」と明確に記すことにより、これが主なる神のご計画であったことが分ります。モーセも80歳で召され、その後の荒野での試練、そして、ピスガの山頂に登り、約束の地をみたあと、モアブの地で死にました。120歳でした。「まだ、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(申命記347節)と記されています。モーセはある意味、自分の使命を考えれば、道半ばでの死でした。自分にとっては受け入れがたい死を、信仰をもって受け入れなければなりませんでした。クリスチャンの人生は、放っておけば、満足していれば、いつのまにか、堕落してしまいます。成長ではなく堕落です。エントロピーの法則です。ですから、主によって再び生き返らせていただくこと、リバイバルの経験が必要です。そのとき、初めて、真のクリスチャン人生である、シントロピーの人生となります。

清宣教師