最近、「忙しい人を支える:賢者の生活リズム」という本をいただきました。その「はじめに」の項目の中で、著者が次のように記していました。
「祈りや聖書を読むときだけでなく、勉強や仕事をしている時も、エクササイズや遊んでいる時も、あなたの存在の中心部分で神を経験することができたら、どんなにすばらしいことでしょう。静かに座って黙想している時だけでなく、日中あなたが動きまわっている時にも、喜びをもって神と時間を過ごす方法はないのでしょうか。この世から離れて修道士になることなく、キリストと親しい関係を築くことは不可能なのでしょうか。十数年前、私は予想もしなかった時と場所で、今の生活を続けながらも日常生活のすべての面で神を経験できる生活リズムがあることを発見しました。・・・」
私たちはみな、このような生き方に飢え渇いています。ですから、私もこの本を読むことにしました。読み終えたら、また、分かち合いができるとお思います。
さて、きょうの詩篇84篇は、今から、およそ3千年前に、神を愛するひとりの詩人が書いたものです。昔も今も、神を愛する者の願い、飢え渇きは同じであることを表しているように思います。皆さまも、この詩篇84篇を読み始めているうちに、心の内なる感動をもって、ぐんぐん惹きつけられたことと思います。神殿での礼拝の喜びを歌っています。つまり、主なる神様との出会いと交わりの喜びを歌っています。
1節の「お住まい」は、原語では複数形となっています。豊かさを表す複数形です。
2節では、「たましい」、「心」、「身」という、霊・魂・体をもって、私たちの善存在をもって、生ける神に喜びを捧げることを表現しています。
3節では、神殿に巣を作っている「雀」や「燕」をうらやむほどに神殿を慕う心を表しています。
4節は、神殿で奉仕している祭司やレビ人たちの幸いを指摘しています。
5節は、巡礼者もまた、神殿に仕える祭司やレビ人たちと同様に、シオンで神を礼拝する幸いにあずかることができます。「シオンへの大路」とは、神殿礼拝に行こうとする心の願いと熱心をあらわしています。
6節は、信仰者が出逢う試練と考えられています。
7節は、「力から力へと」、信仰者は神の力により前進し続けるのです。
8節―9節は、神殿に着いた巡礼者の祈りと考えられます。「われらの盾」、「油注がれた者」は、両方とも、王を指しています。神の代行者として立てられている王のために祈っています。
10節は、「神の宮の門口に立つ」とは、神殿の中ではなく、神殿の入り口の境内に立つだけでも喜びであると、信仰者のへりくだりを示しています。
11節は、「神なる主は太陽です」という表現は独特です。太陽は古来から偶像崇拝の対象となっていたので、この表現は滅多にでてきません。
12節は、「万軍の主」が、1節、3節、8節、そして、12節で繰り返されています。こうして、礼拝の対象が、主なる神であることを強調しています。
詩篇84篇のいくつかは、「ミクタム」や「リビングプレイズ」などのワーシップソングに登場しています。
きょう、みなさま、家事をしながら、子育てしながら、働きながら、学びながら、休みながら、それぞれ、主が置いて下さった、その場所で、主が共にいてくださいますように。主の臨在によって包まれて、元気に過ごされますように、お祈りいたします。
清宣教師