今日の21章の時代背景ですが、南ユダ王国の末期、ゼデキヤ王の時代です。紀元前589年から588年にかけてエルサレムはバビロン軍によって包囲されていました。その頃のことです。
ゼデキヤ王は、預言者エレミヤのもとに、パシュフルと祭司ゼパニアを遣わしました。なお、ここで登場するパシュフルは、20章1節に出てきた人物とは別の人です。ゼデキヤ王は、かつて、アッシリアのセナケリブがエルサレムを包囲した時、当時の南ユダの王ヒゼキヤが預言者イザヤに神のみこころを求めたとき、イザヤがエルサレムは守られ、アッシリアの手には落ちないことを預言して、そのとおりになったことを思いだして、同じように預言者に尋ね求めていると思われます。しかし、これはまったく、都合のよい解釈であった。当時の南ユダは神の民と言われながら形式的な宗教儀式に慣れて、放縦な生活をしていました。一方、聖都エルサレムもまた主に背を向けて、やもめや孤児や在留異国人が圧迫され、指導者たちは自分たちの保身と利権を追い求めるありさまでした。ヒゼキヤ王の時代のように、真剣に主を求めていた時代とはまったく状況が異なります。しかし、ゼデキヤ王にしてみれば、自分たちは神の選民であり、聖都エルサレムには神殿があり、日々、礼拝が捧げられているということで、神の助けがあるのではないかと考えたようです。いかにも虫のよい話です。
主は盲目ではありません。礼拝を守るだけで、あとは自分勝手な生活をしていて、どうして、神の民といえるでしょうか。むしろ、主を馬鹿にしているだけのことです。主を冒涜しているのです。しかし、それには全く気付かないほど、神の民は盲目になっていたのです。主が盲目であるかのように私たちが生活する時、それは、私たち自身が盲目になっているのです。14節で、主はこのように宣言しておられます。「わたしはあなたがたを、その行いの実にしたがって罰する。」。主は私たちの日常の生活の中身を見ておられます。私たちの生活の中で、主が願われているように、神の国と神の義が第1にされているか、主が望むように、社会における義の実現のために心を用いているか、地の塩、世の光としての生き方を実践しているか、すべてをご覧になっています。
さて、主はエレミヤを通して、バビロンは主の裁きをなす器であり、主のみこころを尊重するなら、エルサレムを出てバビロンに投降すること、そうすればいのちだけは助かるとの約束を与えています。しかし、もし、主の裁きを無視して、エルサレムにとどまり続けるなら、死が待っていることを告げました。エレミヤは民たちを前にして、神のみ言葉を宣言しました。「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」(8節)。
名前だけのクリスチャン、外面だけのクリスチャン、内実を伴わないクリスチャンであることを続けることは、主を喜ばせるどころか、主を辱めることになります。私たちが目指すのは、真実、主のみこころを行うことを喜ぶ人となることです。他人の目ではなく、主の目を気にすることを優先することです。
清宣教師