4章は「罪のためのいけにえ」に関する規定がしるされています。罪のためのいけにえは、罪人が神に近づくときに捧げるものです。
罪のためのいけにえは、①油注がれた祭司の罪のため。②全会衆の罪のため。③上に立つ者の罪のため。④一般の人の罪のため。の4つが列挙されています。罪の配列の順序をみると、特権が大きいほど、それに伴う責任も大きく、その罪も大きいことが示されています。①と②では、雄牛、③では雄やぎ、④では雌やぎが捧げられました。
ここで繰り返されている幸いな約束は、「祭司は、その人のために、その人の罪の贖いをしなさい。その人は赦される(20節、26節、31節、35節など)」というものです。罪のために贖いがなされるときには、必ず、その人の罪が赦されるということを約束しています。
ただし、これらの罪はいずれも、「過って犯した」罪に限定されています(2節、13節、22節、27節)。故意に犯した罪は、この範囲ではありません。
ところで、罪のいけにえも、他のいけにえの奉献と同じように、奉献者自身がいけにえとされるものを主の前に連れてくること、そして、奉献者はそのいけにえの頭の上に手を置くこと、本人がほふらなければならないこと、などは、同じです。ただし、この罪のいけにえの場合の特徴としては、祭司の血の扱いが異なることです。①と②の大祭司と全会衆の罪のためには、雄牛の血は聖所の垂れ幕の前に、指でもって7たび、ふりかける儀式が行われました(6節、17節)。さらに、至聖所の垂れ幕の前の祭壇の角に塗る(7節、18節)ことでした。そして、残りの血は祭壇の土台に注がれました。一方、③と④の上に立つ者や一般の人の罪のためには、全焼のいけにえの祭壇の角に塗り、残りは祭壇の土台に注ぐのです(25節、30節、34節)。祭壇で焼かれるのは、和解のいけにえと同様に、すべての脂肪の部分ですが、その他の部分は全部、宿営の外の灰捨て場でたきぎの火で焼かれることになっていました(11節、12節、21節)。なお、罪を犯した者が、その罪を赦されるために捧げるいけにえであるので、この場合は、奉献者が食べることは許されていませんでした。
20節や26節に記されている「贖いをする」ということばは、ヘブル語でキッペルであり、その本来の意味は「覆う」という意味です。つまり、ここでは、彼らの罪を覆うということになります。私たちには分り易いですね。例えば、冬の雪景色を思い出してみましょう。どんなに汚れている町でも、そこに大雪が降ると、すべてのものを覆い、純白な銀世界となります。私たちも、キリストの血潮の贖いによって、真っ白な義の衣で覆われるのです。
祭司が調べるのは、奉献者の状態ではなく、いけにえです。いけにえが傷のない、健全なものかどうかを調べるのです。私たちがどのようなものかではなく、私たちの身代わりになる犠牲の動物が完全なものであれば、神の前にうけいれられるのです。ヨハネの手紙の中には、「この方(イエス・キリスト)こそ、私たちの罪のためのー私たちの罪だけでなく、世全体のためのーなだめの供え物です。」「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」と記されています。私たちではなく、犠牲となられた神の子羊なるキリストが完全であるゆえに、その贖いが神の前に受け入れられるのです。ハレルヤ。
きょう、神の子羊であるキリストに目を向けさせてください。私たちの信仰の目を、罪のない完全な神の御子、イエス様に焦点をあてるように調整して下さい。私たちの希望の源、イエス様、賛美します。アーメン。
清宣教師