さて、ソロモンは、エジプトの王パロと互いに縁をむすび、パロの娘をめとりました。巨大なダムの決壊も最初の小さな穴から始まります。パロの娘との結婚はソロモンの統治を蝕むことになります。しかし、一方では、ソロモンの治世の素晴らしさが記されています。主を愛し、ギブオンで全焼のいけにえを捧げました(3節、4節)。その夜、夢の中で主がソロモンに現われて、願い事を求めるように言われました(5節)。そこで、ソロモンが求めたものは、「善悪を判断して主の民を裁くために聞き分ける心」を願い求めました(9節)。それは主のみこころにかない(10節)、神は、ソロモンに対して「知恵の心と判断する心」を与えると約束されました。それとともに、「富と誉れ」も与えると約束されました(13節)。こうして、主からの賜物によりソロモンは知恵をもって民の訴えを裁くことができるようになりました。
そのあと、ソロモンの知恵の実例が紹介されています(16節―27節)。ふたりの遊女が王のところにきて、その前に立ちました(16節)。二人の女は三日の違いでしたが、こどもを産みました。しかし、一方の女は眠っている間に誤って子供の上に伏して死なせてしまいました。ところが、朝になって、二人の女が、生きている子は自分の子で、死んでいる子が相手の子であると主張して互いに譲らないため、裁判沙汰になりました。ところが、決定的な決め手がないため、決着がつかず、今で言えば最高裁にあたる王による裁判となったわけです。そこで、王はその生きている子を二つに断ち切り、片方の半分をこの女に、もう片方の半分をあの女に与えるという判決を下しました。これはどちらの主張も平行線なので、平等に二つに分けるということでした。この判決に対して、ひとりの女は、その子をあの女にあげてください、と言い、もう一人は判決の通りに断ち切ってください、と言いました。それで、ソロモン王は、最初の女こそ、生きている子の母親であると宣告しました。本当の母親なら、その子のいのちを助けることが最優先であるはずです。こうして、ソロモンは神様からいただいた知恵によって、難問をものの見事に解決しました。こうして、民たちの間に、ソロモン王に対する畏敬の念が生じたのです。つまり、ソロモン王には、神様からの知恵が与えられていると分ったからです。
今日の個所から教えられることは、主から判断力の知恵をいただくなら、難問も解決されるということです。そして、クリスチャンが、主から知恵を求めることは、明らかに主のみこころであるということです。私たちのまわりには難問が山積しています。そのような状況の中で、私たちクリスチャンこそ、主に知恵を与えていただくように祈ることが、主のご計画です。
ソロモン王の判決から、もうひとつの教えを受け取りたいと思います。ある女性が、無責任な男性の仕打ちをうけて、妊娠してしまった場合、どうしたらよいのだろうか。一般的には、まわりの人に相談すると、中絶を勧められる場合が多いと思われます。そして、自分が中高生の未成年者であればとくに、赤ちゃんを産んだとしても育てられないのではないか、その子を産むことは無責任なのではないかという思いが湧いてくると思われます。しかし、それは赤ちゃんを思っての事ではなく、利己的な理由であることに気付く必要があります。神様が与えて下さったいのちです。ソロモンの裁判に登場するお母さんは、赤ちゃんのいのちを一番に尊重しました。自分のことよりも、赤ちゃんのいのちを優先しました。その結果、本当は、自分の子なのに、他のお母さんに自分の赤ちゃんを委ねる決心をしたのです。そして、ソロモンにそのように申し上げました。すると、ソロモンはその母親こそ、本当の母親であると判決を出したのです。もし、自分が育てることが出来ないとしても、一方には、子どもを育てたいと願う人がいます。たとい自分で育てることが出来なくても、養子縁組で他の親に委ねることは決して無責任なことではありません。主が備えて下さった逃れの道です。そのような選択の道があることを、私たちは知っておく必要があります。今の時代は多くの誘惑があります。教会の中高生たちが、性的な被害者になることがないように、また、加害者となることがないように祈りましょう。それが神の家族の一員としての責任です。
清宣教師