ダビデは長い病気で苦しんでいます。そして、それはゆえのない苦しみではなく、自分自身のある特定の罪のゆえであるという自覚があります。それで、この病気は神からの罰であるとして受け入れています。一方で、神との関係が壊れてしまうのではないかと恐れています。この詩篇は「ざんげ(悔い改め)の七詩篇」と言われています。1節~3節では、ダビデが病気の苦しみからの救いを求めて神に叫び求めています。肉体の癒しと共に、魂の平安を求めています。そして、この苦悩は、神様の御計画によるものであり、自分が受け止めなければならない苦悩であることを知っています。だからこそ、主に対して「主よ。いつまでですか」と尋ねています。4節~7節では、魂の救いを求めて、「帰ってきてください」と主に願っています。不安と恐れにより、精神的に不安定になっている自分の姿を正直に告白しています(6節、7節)。8節~10節では、「いつまでですか」(3節)という問いかけに対して、主からの内なる励ましと慰めをいただき、「みな私から離れて行け」と命じる祈りに変えられました。こうして、ダビデは主に祈るなかで、次第に、解決へと導かれていく様子を、勝利と賛美のことばとして残しています(8節~10節)。この詩篇6篇は、短い詩ですが、実際には、ゲッセマネのイエス様の祈りのように、1時間、あるいは、それを3回繰り返したときのような祈りの中の葛藤があり、ついに、主に触れられて、勝利に導かれるという祈りであったろうと推測されます。その祈りの葛藤のエッセンスだけを、ここでは、表現したのだと思われます。
今日の聖書箇所から教えられることは、苦しみが与えられた時、主の前で静まって考えてみることです。すると、心に思い当たることがあります。そうしたら、素直に、悔い改めて実行できるように、主の前に祈ることです。あるいは、その苦しみは、自分ではなく、イエス様の十字架の苦しみのように、他の人のために受けるものかも知れません。そうであるなら、主があなたに豊かに報いて下さいますように。
清宣教師