今日の個所は、1節で、「天を張り、地の基を定め、人の霊をその中に造られた方、主の御告げ。」と記されています。すべてのすべての起源は、創造主にあります。天も、地も、人間もみな、創造主の御手によって創造されました。天候の変動も偶然ではないとすれば、そこに神様の憐みもあり、真実もあります。イスラエルの民が、荒野(砂漠のようなところ)を旅していた時、昼は雲の柱を備えて、民たちをその陰に、涼しさをもって守って下さったことが聖書に記されています。すべてのことは主の御手の中にあるとすれば、私たちは生きる力が湧いてきます。そして、また、今でも、主は私たちを、さまざまな配慮をもって守って下さいます。
1節~8節では、ユダの民に対する神の祝福の約束が記されています。主はイスラエルの民を攻撃する敵から守って下さいます。主はイスラエルを誰も動かすことが出来ない非常に重い石として下さるのです。それを動かそうとする者は、逆にその石に落ちかかり、砕かれてしまいます。また、「燃えているたいまつ」(6節)としてくださいます。それを消そうとするものがあっても、逆に、それらを焼き尽くす火となるのです。主はエルサレムの住民をかばって下さるのです(8節)。素晴らしい祝福です。
9節~14節では、聖霊の注ぎによる神の決定的な勝利の約束が記されています。ダビデの家とエルサレムの住民の上に、『憐れみと哀願の霊』が注がれます。現代の私たちも、キリストの血による新しい契約の中で、聖霊様をうけることができるようにされました。「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように」(10節)と記されていますが、これは約550年ののちに、イエス様が十字架の上で、ローマ兵士の槍によって突き刺された時に受けられた脇腹の傷を指していました(ヨハネの福音書19章21節~37節参照)。ヨハネは、ヨハネ19章37節で、このゼカリヤ書12章10節のみことばを引用して、このゼカリヤの預言が成就したと記しています。そののちに、「ひとり嘆く」ということばが繰り返されています。聖霊様は、ひとりひとりに、罪を認めさせ、悔い改めの救いへと導いて下さるのです。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネの福音書16章8節参照)。頑なに見えるひとでも、聖霊様が働いて下さいます。私たちの目には不可能に近いように見えても、主にとって不可能なことはありません。この信仰に立って、共に祈っていきましょう。
ところで、「燃えるたいまつ」(6節)という表現がありましたが、これはまさに「炎のランナー」の姿ですね。この創造論の福音の炎を消そうとする敵の策略がありますが、この炎が逆に日本中に燃え広がり、進化論や唯物論や、無神論の思想を焼き尽くしてしまう日が来るという約束として受け取ります。
清宣教師