昨日の1章では、エゼキエルは、特異的な体験をしましたが、聖書全体から見る時、これは異常な体験ではありませんでした。旧新約聖書の両方に、エゼキエルと同じように主の臨在の光景を体験し、聖書に記している人がいました(出エジプト24章9-10節)、イザヤ書6章1-8節、ダニエル書10章5-11節、使徒の働き26章12-18節、黙示録1章12-19節参照)。これらの参照個所を読むと、やはり、「…のように、…のようであり」という表現で、主の臨在の光景を記しています。神の前に召される時、彼らはみな、倒れたり、伏したり、恐れています。エゼキエルも同じでした。昨日の1章28節で、「これを見てひれ伏した」と記されています。しかし、今日の2章1節で、「人の子よ、立ち上がれ。」と言われ、さらに、2章2節で、主の霊が、エゼキエルのうちに入り、彼を立ち上がらせました。神様が私たちを召される時、ご自身の臨在を示し、みことばで勇気づけ、そして聖霊によって立ち上がらせてくださいます。ここで、「人の子」という表現が用いられていますが、これはエゼキエル書に独特の表現です。例外的にダニエル書で1回だけ、用いられています。エゼキエルは、「人の子」と呼ばれていますが、それは、土から造られた人間の弱さ、脆さを表しています。主は、私たちのことを御存知です。私たちの弱さ、脆さを御存知です。だから、みことばをもって、聖霊の助けをもって支えてくださいます。エゼキエルが遣わされるのは、どこですか? 反逆の国民、反逆の家(3,5,6,7,8節参照)です。彼らはまことの主なる神を知りながら頑なに反抗するものたちです。ですから、彼らから得られるものは、抵抗、侮蔑、迫害などなどです。悪い仕打ちを受けるのが、当たり前なのです。これほどの苦しい働きはないと思います。だからこそ、主は、恐れを取り除いてくださるために、語りかけ、主の霊によって強めて下さるのです。これは人間の働きではなく、主の働きです。4つの法則で有名なキャンパスクルセードの創立者であり、何万人の求道者を救いに導いた人、ビル・ブライト博士が語っています。「わたしは、求道者の人に福音を伝える時、恐れとの戦いがなかったことは一度もありません。」と語っています。福音を受け入れるかどうかは、聴く人の責任です。それでも、私たちには恐れがあります。しかし、ビルブライト博士ですら、恐れとの戦いの中で、福音を伝えたのです。恐れがあることが問題ではなく、恐れをどのように受け止めるかが問題です。私たちはエゼキエルのように、いや、エゼキエル以上に「人の子」です。しかし、主が、語り、霊をもって強めてくださいます(3章8-9節)。私たちは恐れとの戦いの中で、福音を伝えるのです。両親、兄弟、子供たち、友人、知人、近隣の人に、伝える勇気を与えて下さい。
清宣教師