きょうの7章では、1節―2節:預言者エレミヤは、エルサレムの神殿の門(入り口)に立って、神のことばを語ります。つまり、主を礼拝するために門に入るユダの民に対して語るのです。3節―7節:日常の行いを悔い改めよ。あなたがたは「これは主の宮だから、主の宮があるエルサレムだから、絶対に外国の侵略を受けることはない」と語る偽りの預言者の声に信頼してはならない。どんなに形式的に主の宮に来て主を礼拝しているように見せかけても、その生活の中身が、弱い者を虐げず、偶像礼拝をおこなわず、公儀を行うものでなければ無意味である。8節―11節:無意味なことばに信頼してはいけない。実際の生活の中から盗みやバアル礼拝などをしていながら、この主の宮に礼拝しているから「私たちは救われている」などというのは空しいことである。主の家を利得を求める者たちの家にするのか。12節―15節:かつて、エルサレムに神殿が立てられる前はシロに神の宮があったが、いまは捨てられている。同じように、このエルサレムも、日常生活において神のみことばに従わない限り、滅ぼす。いままで、預言者を遣わして何度も語りかけてきたのに、あなたがたは聞こうとしなかった。だから、あなたがたをここから追い出す。(2節~15節までは、主なる神が預言者エレミヤを通して、神殿に礼拝に来た人たちに語られてことばである)。16節―20節:ここは、主がエレミヤに語られたことばである。エレミヤよ。あなたはこの民のために執り成しの祈りをしてはならない。それは聞かれないからだ。彼らは、「天の女王」(バビロンの女神、イシュタル)のために、家族みんなで手分けして星の形をしたパン菓子を造ったり、拝んでいる。だから、わたしの憤りは、この場所、人間、家畜、畑の木、地の産物に注がれる。21節―28節:わたしがエジプトからイスラエルの民を連れ出したときに命じたことは、ただひとつであった。「わたしの声に聞き従え」これだけであった。しかし、彼らは聞かず、たびたび送った預言者の声にも耳を傾けることをせず、従わなかった。29節―34節:わたしはこの民を退ける。わたしが堅く禁じたにもかかわらず、自分の息子、娘をモレクの神にささげている。だから、バビロンの軍勢がきて、ここでこの民を裁くので、この谷は虐殺の谷とよばれ、死体で満ちる。この国は廃墟となる。
今日の聖書箇所から教えられることは、神を礼拝するとは、神の宮において礼拝することだけではなく、実際の日常生活、人生の瞬間、瞬間において、神様を礼拝する(原語の意味は、神様を大きくすること)ことです。格差、差別、中絶、同性婚、偶像礼拝、原発の再稼働などが拡がる日本において、私たちは神の民として、毅然とした態度をとるように命じられているのです。
清宣教師