「異邦人の道を見習うな」(2節)と呼びかけます。「異邦人の道」とは偶像礼拝の道であり、「天のしるし」とは天体崇拝のことを表しています。偶像も天体も、これらは被造物であって、きゅうり畑のかかしのようなもので、ものも言えず、歩くことも出来ない存在です(5節)。それなのにいくら名匠が作ったとしても、貴重な金や銀で形づくられたものであっても、どんなに巨大なものであっても、神秘的に飾られていたとしても、偶像は偶像です。それはいのちがなく、人格がなく、空しい、役に立たないものです。なぜ、創造主を知っているイスラエルの神の民が、このような偶像に心を惹かれてしまうのか、なぜ、偶像礼拝をして、創造主の怒りを買うようなことをしているのか、創造主こそ、生けるまことの神であり、私たちが礼拝すべき唯一のお方です。
「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる』と」(11節)。ここで、興味深いことがあります。それはエレミヤ書の中で、ただ、この11節だけが、ヘブル語ではなく、アラム語で記されているのです。ある注解者は、エレミヤの宣教的感覚が働いたのだと考えています。異邦人への宣教のことばとして、当時の国際共通語を用いて、全世界の偶像礼拝のもとにある民たちに、このメッセージを発信したという考えです。一方、エレミヤがバビロンの捕囚の地で偶像礼拝を強要されているエホヤキン王や同胞に対して書き送った手紙の一部ではないかと考える人もいます。ともかくも、エレミヤ書の中で、ただ1節、アラム語で書かれた1節であり、その内容が創造論宣教のメッセージであったことは、西多賀教会の私たちにとって、創造論宣教が、全世界に発信すべき重要なメッセージであることを再確認させてくれる聖句であり、励ましですね。さて、南ユダの民は、それでも偶像礼拝をやめないので、結局、主からの裁きの宣告をうけることになります。「ああ、悲しい。この傷のために。この傷はいやしがたい」(19節)。バビロンによる捕囚が預言されます((21節、22節)。エレミヤは、主の前に執り成しの祈りを捧げています(23節―25節)。エルサレムを攻めようとする者たちに対して、懲らしめを与えて下さるようにとの祈りです。エレミヤは、民たちの現状を嘆きながら主からの滅びの預言を伝え、しかも、民たちのことを深く悲しみつつ、執り成しの祈りをするのです。
今日の聖書箇所から教えられることは、まことの神は、生ける神であり、天地万物を創造された神です。創造主なるお方こそ、まことの神です。「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。」アーメン。進化論は、天地万物は偶然の産物であると主張しています。しかし、この天地は、創造主が無限の叡智をもって造られたのです。主よ。天と地とすべての生命を造られた神様、あなたに感謝します。あなたを賛美します。
清宣教師