今日の4章は「ああ」ではじまります。哀歌の1章、それに2章の冒頭のことばと同じです。昔は、金に喩られ、聖なる石に喩られた栄光のエルサレムはいまや落ちぶれて道端に投げ出されたごみのようです(1節)。3節―4節は、野獣のジャッカルでされ自分の子を育てるのに、エルサレムの民は、自分の子を育てず、食物を与えない(極度の飢餓の状態にある)状況にあることを嘆く。5節では、かつては、御馳走を食べ、紅の高価な衣装をまとい優雅な生活をしていた者たちが、いまは食べる者もなく、たい肥をかき集めなければならないことを嘆いています。このように、エルサレムは、まったく、悲惨な状態にあります。それもこれも、神の裁きであり、自分たちの罪の結果を刈り取っているのです(6節―12節)。指導者である預言者も祭司も、職責を果たさず、私利私欲に走り、悪事をしたからです。そして、本来は、民たちから尊敬され、慕われるべき祭司も預言者も、「あっちへ行け。汚れた者」と叫ばれる始末です(13節―15節)。もはや主ご自身も、彼らを散らし、目を留めませんでした(16節)。ここまで、悲惨なエルサレムの状況を詠んできた哀歌の著者は、これまで、「私」という単数形のことばでエルサレムを表現していましたが、次の17節からは「私たち」ということばで、自分もそこに加わるようになります。「私たちの目は衰え果て、私たち、私たち、私たち・・・」という表現が目立っています(18節)。神の民の悲劇に、自分自身も一緒になって、反省と自省の思いを込めて哀歌を詠んでいます。最後の21節と22節は、エドムに対する神の審判です。ネブカデレザルがエルサレムを攻撃してきたとき、エドムは南ユダを助けることを拒みました。そして、後に、ネブカデレザルは、南ユダの一部をエドムの支配下に与えました。そのようなエドムに対して、主は裁きをされるというのです。全体を通じて、哀歌1章―3章の内容と同じようなものとなっていますが、4章では、とくに、過去のエルサレム(南ユダ)の栄光と現在の悲惨を対比して、嘆きを述べています。きょうのところでは、祭司や預言者、指導者たちが、なすべきことをしないで、なしてはいけないことに力を注いでいたことを指摘して、厳しく糾弾しています。エレミヤとは同時代にバビロンの捕囚の地で活躍していたエゼキエルも、指導者たちの罪を鋭く、糾弾しています。エゼキエル書34章1節―11節です。
私たちも、日本の指導者のためだけでなく、米国、ロシア、中国、北朝鮮、韓国の指導者のためにも祈りましょう。それぞれの国民が圧迫されることがありませんように祈りましょう。とくに、北朝鮮、中国、ロシアにおいてキリスト教への締め付け、迫害があります。創造主が介入して下さいますように。
清宣教師