今日の18章の内容は、あなたがたイスラエルの民は、バビロン捕囚のような悲惨な状態に陥ったのは、「我々の先祖の罪のせいだ、我々には罪はない」、と主張しているが、そうではない、あなたがた自身の罪の結果である。だから、悔い改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたを赦す。このような内容となっています。さて、詳細ですが、今日の個所は、繰り返し、繰り返し、説明しているので、非常に分りやすい個所です。2節、「父が酸いぶどうを食べたので、こどもの歯が浮く」ということわざとは、「イスラエルが、今の苦境にあるのは、先祖たちの罪によるのだ」という主張でした。こうして、自分たちを正当化し、自分たちの罪を認めようとしないので、主は、もう再び、このことわざを用いないようにする、と宣言しました。5節―9節、偶像礼拝や隣人を圧迫することをせず、むしろ、公儀と正義を行うなら、その人は正しい人であり、神の前に必ず生きることができる。10節―13節、しかし、その人の子が無法者で、偶像礼拝をし、姦淫を行い、隣人を圧迫するなら、父親が正しい人であっても、その人は自分の行いのゆえに、神の前に必ず死の裁きをうける。14節―18節、しかし、その人の子が、偶像礼拝をせず、姦淫をせず、隣人に良い行いをするなら、その父親が悪人であっても、その人は自分の行いのゆえに、神の前に、必ず生きることができる。19節―20節、このように、父の罪を子は負うことがなく、子の罪を父が負うことはない(申命記24章16節参照)。神の前には、その人自身の罪についてのみ、裁きを受けることになる。21節ー24節、しかし、どんなに悪者でも、全ての罪から神の前に立ち返り(悔い改め)、良い行いをするなら、神の裁きの時には、すべての背きの罪は覚えられず、その正しい行いのゆえに、生きることが出来る。逆に、どんなに正しい人でも、正しい行いから遠ざかり、悪事を行うようになるなら、彼が行った正しい行いは覚えられず、彼の悪事のゆえに、死ななければならない。25節―29節、すると、あなた方は、「主の態度は公正でない」と非難する。しかし、どんなに正しい人でも、正しい行いから遠ざかるなら、その悪事のゆえに死ぬ。一方、どんな悪人でも、悔い改めて、立ち返り、公儀と正義を行うなら、生きることが出来る。これについて、あなたがたは、あくまでも、「主の態度は公正でない」と非難するが、そうではない。公正でないのはあなたがたの態度である。30節ー32節、わたしはあなたがたをそれぞれの態度によって裁く。悔い改めて、生きよ。わたしはあなたに新しい心と新しい霊を与える。悔い改めて生きよ。わたしは、誰が死ぬのも喜ばないからだ。以上です。さて、ヤコブ書2章10節で、「律法全体を守っても、ひとつの点でつまずくなら、その人はすべてを犯したものとなったのです。」と記されています。そもそも、人間が神の前に立って、自分は正しいと主張するなら、その人は律法によって裁かれます。律法によって立つなら、ひとつだけ、悪事を行っても、すべてを犯したことになるのです。こういわれと、皆さんの中には、「たったひとつの違反で、すべてを犯したことになるなんて不公平だ」と思うかたも少なくないと思います。しかし、数百万円もする和服を思い浮かべてください。万年筆を落として、黒い汚れがついてしまいました。そこだけ、切り取ればよいでしょう、と主張しても通りません。一点の汚れが和服全体の価値を無にしてしまうのです。王様に召しあがってもらうために、美味しいスープを作っていました。そこに一匹のハエが落ちてしまいました。ハエだけ、取り除いて、OKとなるでしょうか。いえ、全部のスープを台無しにしたのです。聖なる律法を守るとは、そういうことです。もう一つ、例えてみます。風船に水をいれてふくらましました。大きな風船が出来ました。しかし、そこに、どこでもいいですから、細い針でつついてみました。風船は破れて、水が噴き出して、萎んでしまいました。風船のどこでも、同じです。非常に細かい穴が開いたら、それで、おしまいです。私たちが神様の前に自分の正しさを持ち出したら、とても、危険なことです。それは、私を律法によって裁いてくださいと主張していることになるからです。それは死の道です。私たちが助かる道はただひとつです。神様の憐みと恵みによる赦しをいただくことです。つまり、自分の罪を認めて、悔い改めて、神の前に立ち返り、新しい心、新しい霊をいただいて、新しい人生を歩み始めることです(31節)。
清宣教師