いよいよ、旧約聖書の最後の書になりました。ようやく、ここまでたどり着きました。ここまでくると、ひとつの峰を登り終えたような充足感があります。今度は新約聖書の美しい山並みが目の前に見えてきました。
バビロン捕囚後、ユダの民は神殿の再建を果たしましたが、約束された栄光(ハガイ書2章7節)をまだ見ることは出来ず、打ち続く凶作のため、民は貧困になり、いつしか、不信仰に陥ってしまいました。宗教的冷淡と道徳的退廃が国中に蔓延し、祭司たちもこの流れに巻き込まれ、モーセの律法を平気で破るような状況になっていました。そのような時、マラキは預言者として遣わされました。「マラキ」という名前は「私の使者」という意味です。そのため、70人訳聖書では、これをマラキという特定の個人の名前とはしないで、「神の使者によってイスラエルに与えられた主のことば」と訳しています。
1節~5節では、イスラエルに対する神の変わらない愛を伝えています。「わたしはあなたがたを愛している」、これが主が語られたことばでした。しかし、イスラエルは「どのように。あなたが私たちを愛されたのですか」という侮辱的な応答をしています。しかし、神はこれを叱ることなく、選びについて述べています。そして、イスラエルは「主はイスラエルの地境を越えて偉大な方だ」と告白するようになると言われました。
6節~14節では、祭司と民の罪についてふれています。まず、主に対する恐れの欠如、捧げ物における不真実(ごまかし)、そして、祭司の奉仕における不真実について述べています。祭司たちは、平気で傷のあるものを祭壇に捧げ、「なんとうるさいことか」と言って、奉仕のわざを忠実におこなうことを拒絶しました。熱くもなく、冷たくもない、なまぬるい宗教的な活動が彼らを怠惰にし、喜びのないものとしていました。そこには、主への真実の感謝や尊敬をみることは出来ませんでした。
私たちの時代も、なまぬるい時代に入っています。霊的な目覚めが必要な時代に生かされています。主のみことばのとおりに生きることが難しい時代です。今こそ、私たちの信仰がリバイバルされることを願います。私も、「主よ。殉教者の信仰、宣教の最前線に立つ覚悟と勇気を与えて下さい」と応答します。
清宣教師