7章の1節~6節は、6章に続く内容です。
ここでは、預言者ミカは、失望落胆している農夫の心境のようであったと思われます。夏の果物も、初なりのイチジクも期待できない心境です。預言者ミカは、富や軍事力や偶像に頼る民たちに対して神からのさばきの警告を伝えました。しかし。民たちは馬耳東風に聞き流し、不正、不道徳、不法、混乱が止まるところを知りませんでした。こうなれば、悔い改めの実を期待することは出来ません。指導者から市民まで、みな私腹を肥やす人生を送り、ユダの地には義人や善人は一人もいない状況となっていました。役人も、裁きつかさも、有力者もみな罪悪に満ちているのです。親しい友や自分の家族すら自分の利益のためには人を裏切る存在となってしまっているのです。いま、現代の私たちも、家庭の崩壊、教育の荒廃、商取引における不正の横行、法の歪曲まで起こっているのです。主による回復が必要です。
7節以降は、「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いて下さる」と宣言しています。社会的な不正の中で、また、真理に対する嘲笑の中で、私たちはミカのように、「しかし」と宣言する必要があります。どんなに暗い状況の中でも、私たちが、「しかし」と言って立ち上がる時、主は私たちを光の中へと連れ出してくださいます(9節後半)。聖書によれば、世界で最も強い人とは、神と共に歩む人、主とひとつになった人です。「私の救いの神」、「私の神」(7節)という告白です。私たちの敵は、人々の背後に身を隠して、私たちを攻撃します。「いもしない神を頼るな」、「神の存在?そういうのが愚かな思い込みではないか」、「お前のような者の祈りが聞かれるものか」、「神が愛なら、なぜ、不正、暴虐、殺戮があるのか」などなど。そこで、私たちクリスチャンは、「しかし」と立ち上がり、「私の神は私の願いを聞いて下さる」と宣言する勇気と力が必要です。11節~13節では、エルサレムを廃墟としたバビロンもまた、メド・ペルシャのダリヨス王の軍勢により滅亡することになるのです。そして、最後の審判の時、すべての不信者、神に敵対する者たちは滅びるのです(11節~13節)。神の民の敵たちは、みな恥と驚愕のため、沈黙し、這いつくばって主の前にわななきつつ、恐れつつ、主の裁きに服することになるのです(16節~17節)。一方、悔い改めて、主を恐れる者たちは、主への感謝と喜びのゆえに賛美を捧げるのです(18節~20節)。悔い改めと主の赦しを通して、繰り返し、主との距離が短くなっていくのです。私たちの罪の赦しのために、神の御子は想像もできない大きな犠牲を払って下さいました。そして、私たちのすべての罪を海の深みに投げ込んで下さったのです。ところで、「ミカ」という名前は、1章で紹介しましたが、「誰が主(ヤハウェ」のようであろうか」という「ミカヤフー」から来たものです。「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」。いいえ、ありません。主こそ、まことの救い主です。アーメン。
清宣教師