きょうは、イエスが神の御子であるという証拠としての奇蹟、第4番目のしるしが記されています。男だけで5千人の人たちを養ったパンの奇蹟です。人数は女性や子供たちを含めると1万人を超える大群衆であったと思われます。6章に入ると、ちょうど、イエス様の公生涯の真ん中、折り返し地点に達した時であり、イエス様の名声がその頂点に達したときでもありました。イエス様は山に上られました。ガリラヤ湖を見下ろす小高い丘のようです。ガリラヤ湖は、淡水で、南北20キロメートル、東西12キロメートルの湖でした。この大群衆は、イエス様を求めて、イエス様の行く先々へ移動していたようです。そこで、ひとつの問題が発生しました。このひとたちの霊の糧だけでなく、肉の糧をも与えなければならない状況になっていたのです。イエス様は、ひとりの少年が持っていた5つのパンと小さな魚2匹を受けとり、天を仰いで感謝をしてから弟子たちを通して、人々が欲しがるだけ(11節)、パンも魚も、与えました。それで、人々は十分に食べることが出来ました。そして、なんと、余ったパン切れを集めてみると、12のかごがいっぱいになりました。この奇蹟はイエスが神の御子であることを証しするしるしでした。神の国では、食料の不足などは、まったく問題にならないことが分ります。さて、この奇蹟を体験した群衆は、熱狂し、この方こそ、世に来られるはずの預言者だと言い、自分たちの王として、迎えようとしました。それは、イエスをエルサレムに連れて行き旗揚げしようというものでした。この群衆の熱烈な反応に対して、イエスは、群衆を解散させ、弟子たちを強いて船に乗り込ませて送り出し、ご自分は高い山の上で祈りを捧げられました。公生涯のクライマックスの出来事でした。しかし、6章の後半は、イエス様が、ご自分を天から下ってきた生けるパンであり、このパンを食べない限り永遠のいのちに預かることが出来ないこと、さらには、ご自分の肉を食べ、血を飲まなければ永遠のいのちを得ることが出来ないことを伝えられました。その意味は、あの出エジプトのとき、過ぎ越しの子羊が屠られて、その血が鴨居に塗られ、その肉を家族で食べることにより、家族のいのちが救われたように、イエス様が十字架につけられて、その肉が裂かれ、血が流されることなしに、罪の贖い、罪の赦しがないことを示すものでした。あの過ぎ越しの羊は、やがて来たるべき神の御子イエス様の十字架の贖罪のわざを予表するものでした。しかし、ユダヤ人たちは理解できず、大勢のものがつまずき、弟子たちのうちの多くの者もイエスの許を離れて去って行きました(41節、60節、66節)。クライマックスから、一転して、十字架に向けての公生涯の後半が始まるのです。しかし、12弟子たちは、イエス様のもとに留まりました。しかし、その中に裏切り者もいたのです(67節―71節)。きょう、主がともにおられます。すべての苦しみを味わい、私たちのすべてを理解される主イエス様が共にいてくださいます。

清宣教師