さて、パウロはマケドニヤへ向かって出発しました(20章1節)。今まではパウロは、アジア州の伝道に力を入れていましたが、19章21節にあるように、御霊に示されて、エーゲ海を隔ててアジア州の対岸にあるヨーロッパ(マケドニヤやアカヤ)へ渡ることにしました。(*マケドニア州、アカヤ州は、現在のギリシャ共和国の一部です)。マケドニアでは、諸教会(ピリピ、テサロニケ、ベレヤなど)をまわり、そして、ギリシャに入りました(20章2節、ここでギリシャとは、アカヤ州のことを意味しています)。アカヤ州には、あの問題の多いコリントの教会があり、日夜、パウロの心の中にある祈りの課題でした。このコリントの教会で3か月ほど過ごしました(20章3節)。その間、牧会の問題に対処するとともに、ローマ人への手紙を執筆したと思われます。その後、船で、シリヤに直行しようと考えましたが、パウロに対する陰謀があることがわかり、陸地伝いに、今まで通って来た道を帰ることにしました。つまり、マケドニヤを通り、そして、ピリピについて、そこから、船で対岸のアジア州の港町トロアスに着きました。トロアスで、使徒の働きの著者のルカが合流しました。「彼ら」が「私たち」という表現に変わりました(20章5節~21章18節まで)。パウロ一行はこのトロアスに7日間、滞在しました(6節)。そこでパウロの宣教報告会がありました。パウロは熱心に語り続け、夜が更けていきました。パウロの話が長く続くので、ユテコという青年が眠り込んでしまい、3階の屋上から下に落ちて死んでしまいました。集会中の事故ですから大変な事態となりました。医者ルカが診察してみると、この青年はすでに死んでいました。しかし、パウロは、この青年を生き返らせて、それから、また階上にのぼって明け方まで語り続けました。そして明け方に出発しました。パウロはその後、自分一人で祈り、考えることがあったようで、一行とは別に、パウロだけは陸路を通ってアソスまで、25キロメートルの山道を歩きました。おそらく、自分一人で祈りたかったのだと思います。アソスで、船で向かった一行と落ち合いました。それから、パウロも一緒に、船にのり、ミテレネに着きました。それから船で、サモスに立ち寄り、さらに、ミレトに到着しました。(*トロアス、アソス、ミテレネ、サモス、ミレトはすべてアジア州の町々です。現在のトルコ領内です)。このミレトで、パウロは少し内陸にあるエペソに使いを出して、エペソの長老たちをミレトに呼び寄せました。そして、彼らに指導者としての心得を伝えています(18節~35節)。その内容は、まずパウロの伝道観(18節~27節)、ついで、パウロの教会観(28節~31節)、最後に、パウロの聖書観(32節~35節)となっています。まず、パウロの伝道の姿勢は、「謙遜の限りをつくし」、「涙をもって」、「数々の試練の中で」伝えるというものでした。つまり、「謙遜」と「愛」と「忍耐」をもってひたすら主に仕えたことを伝えています。その伝道の範囲は、「人々の前で」、「家々で」、「ひとりひとり」と記されているように、公の場での伝道、家庭集会での伝道、個人伝道というように、いろいろな機会を利用した伝道でした。次に、パウロの教会観ですが、「神の教会」という表現が用いられています。教会は本質的に神に属するもの、神の所有であるというのがパウロの基本的な教会観であることが示されています。教会は、指導者のものではなく、信徒のものでもなく、神の教会であるという確信です。その教会を牧させるために、キリストは指導者をおたてになったのです。その指導者に期待されていることは、ひとつは、自分自身に気を配ること、ふたつは、群れ全体に気を配ることです。最後のパウロの聖書観については、神のことばは、信徒たちを育成する力であること、「育成」ということばは、もともと「建てる」という意味を持っています。個人というよりも、他の聖徒たちと共にキリストのからだとして建てあげられる、という意味での育成です。次に、聖書は、めぐみのことばとして大きな試練の中でも私たちを恵みをもって慰め、導いてくれるものです。だから、パウロは安心してエペソの指導者たちを、この恵みのことばに委ねることができるというのです。そして、別れの時が来て、パウロは、ひざまずいて長老たちと共に祈りました。彼らは声をあげて泣きました。この親しい交わりはやがて天の御国において回復されます。彼らは再び親しい交わりに入るのです。この世での別離は涙を伴いますが、それは天の御国での再会の喜びに変わるのです。

清宣教師