さて、コリント人への手紙、第1、14章です。12章では御霊の賜物、13章では愛の賜物、そして、14章では、再び、御霊の賜物、とくに、預言と異言ということばの賜物について扱っています。どうやら、コリントの教会では、この二つの賜物が脚光を浴びている一方、少なからず混乱が生じていたようです。それで、パウロは早速、回答に入ります。異言は神に話すものであり、自分の徳を高めるものであり、異言の解き明かしがない場合は、だれも何を話されているのか意味がわからないので、その場合は教会の公けの礼拝では黙して座っていた方がよいと勧めています。一方、預言は周りの人に話すものであり、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えて、教会の徳を高めるものなので、その賜物が豊かに与えられるように求めなさいと勧めています。徳を高めるとは、その人の人格を建てあげるということであり、勧めとは、失敗し、意気消沈している人を励ますということであり、慰めとは、悲しみのうちにある人を慰めることであり、こうして、教会の徳が建てあげられるのです。ただし、預言にしても、2,3人で聖書全体の教えと照らし合わせて、間違いがないかどうか吟味することが必要であると述べています。23節の「ですから」という訳は、この新改訳聖書を訳した方の解釈が含まれています。ただしくは、「それにしても」という訳になると思われます。「ですから」という文脈は、20節の異言は不信者のためのしるしであり、21節のように、未信者が教会に入ってきたとき、異言で話していたら、この教会はおかしいと言って去るためのものである、と解釈します。しかし、ここでは異言を否定しているのではなく、21節のように異言は不信者のためのしるしである。「それにしても」もし、未信者の人が教会に入ってきたとき、みなが異言で話していたら躓きになるから、そのようなことはしないようにとの勧めであると理解されます。ところで、34節と35節の意味ですが、女性たちは教会の中では語ることが許されていないという意味ではありません。そうではなく、礼拝中に、お互いにおしゃべりしたり、礼拝中に夫に質問したり、礼拝を妨げないようにとの配慮です。なぜなら、11章5節に記されていますが、女性も、教会の中で、お祈りすることも、預言することも許されていました。34節を誤解しないようにお願いします。なお、39節に記されていますが、異言も、預言も大切な御霊の賜物です。ただ、40節にあるように、すべてのことを適切に秩序をもって行うことが大事です。この役目は牧師に与えられています。預言する者も、異言を語るものも、牧師の指示に従うことが大事です。コリントの教会での混乱の原因は、預言の賜物や異言の賜物をもつ者が、神から与えられたと言って、牧師の指示に従わなかったので混乱があったようです。教会の礼拝は、牧師の指示のもとに、適切な秩序をもって行われるべきものです。

清宣教師