ガラテヤの諸教会の信徒たちは、偽使徒たちに惑わされて、福音ではなく、律法遵守に走ろうとしていました。それは、神の恵みによって、せっかく相続人としての身分をいただきながら、その身分を捨てて奴隷に逆戻りする道を選択することでした。そのことを明確に教えるために、3章の最後の「約束による相続人なのです」ということばを受けて、4章では、「相続人というものは・・」という出だしで始まっています。確かに、相続人としての子供も、主人の所有者としての奴隷も、子供の時には家の中ではその家の主人の管理の下に置かれています。なんの違いもないように見えます。しかし、それは定めの時までです(1~3節)。定めの時が来ると、相続人である子供は、一人前となり、家の主人の財産を相続しますが、奴隷にはそのような権利はありません。父なる神は、神の時が来たので、御子イエス様をこの世に送られました。そして、律法のもとにある者として生まれさせました。それは、律法のもとにある者たちを贖うためでした。御子イエスは、律法のもとにあるすべての者の代表として、その罪を負い、贖いを成し遂げられました。その結果、ガラテヤの諸教会の信徒たちも、父なる神の子としての身分を、値なしにいただくことになったのです(4~5節)。それで、キリストが十字架の死を通して、贖ってくださったので、もはや奴隷ではなく、父なる神の子として身分をいただくことになったのです。そして、実際、イエス様が十字架の贖いを成し遂げられたあと、イエス様を信じる者たちに、父なる神から御霊が遣わされました。そして、信じる者たちの心に住まわれて、「アバ、父」と呼ぶものとしてくださったのです。子ということは、正式の相続人となったということです(6~7節)。それなのに、各種の日や季節などを守ろうとしたり、律法の祭儀を守ることに専心して、再び、律法の奴隷になろうとしていることを鋭く指摘しています。それでは、せっかく子とされた特権が無駄になってしまいます(8~11節)。パウロ自身は、どれほど、ガラテヤの諸教会の信徒たちを愛しているか、と伝え、同時に、ガラテヤの諸教会の信徒たちが、どれほど、パウロを愛してくれたか、を思い起こさせています。こうして、ガラテヤの諸教会の信徒たちとパウロ自身の関係を明確にしたうえで、偽使徒たちの正体を見抜くように願っています。(12~20節)。パウロは、最後に、奴隷の子と自由の子について、旧約聖書の中から引用して、ガラテヤの諸教会の信徒たちが、今一度、福音と律法の関係を明確に理解できるように勧めています。ユダヤ人によって信仰の父として尊敬されているアブラハムを例にあげています。アブラハムには、ふたりの子がいました。ひとりは女奴隷ハガルから生まれたイシュマエル、もうひとりは、自由の女サラから生まれたイサクです。イシュマエルは、人間的な計画(肉の計画)によって生まれました。一方、イサクは神の計画(神の約束)によって生まれました。イシュマエルは、シナイ山(今のエルサレム)のことであり、律法を意味しています。イサクは、天のエルサレム(約束の子たちに与えられる永遠の住まい)を意味しています。結局、どうなったかというと、創世記に記されているように、「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」と言われて、ハガルとイシュマエルは追い出されました。しかし、ガラテヤの諸教会の信徒たちのみなさんは、律法のもとにある奴隷の子どもではなく、御霊の証印をうけて正式の相続人となった自由の子なのです(21~31節)。だから、あの偽使徒たちに騙されてはいけないのです。あなたがたは、神の御子の贖いにより、律法から解放された自由の子なのです。その自由を決して奪われてはいけないのです(5章1節)。

清宣教師