テトスへの手紙は、テモテへの第2の手紙が書かれた直前、つまり、テモテへの第1の手紙と第2の手紙の間の時期に書かれたと考えられています。つまり、紀元65年ごろと言われています。パウロは、この時、ローマの獄中にありましたが、これはローマでの2回目の投獄の時のことでした。最初に投獄されたときは、使徒の働き28章30節に記されています。その時は自宅に軟禁状態でした。しかし、2年後には釈放されました。釈放後、パウロはスペインに宣教旅行をしたようです。また、エペソに行き、そこで、テモテを牧師に任命してエペソの教会の群をテモテに委ねました。そのあと、パウロはマケドニアに行き、テモテへの第1の手紙を書きました。それから、クレテ島にわたりました。クレテでは、パウロは残務整理がありましたが、どうしてもそこを去らなければならない事情があり、テトスを牧会者として立てて、クレテの教会の群を託してニコポリに向かいました。ニコポリから、このテトスへの手紙を書いたようです。そして、パウロはさらに、トロアスへ行き、そのあと、捕縛され、ローマに移送され、ローマの獄中にありました。そして、ローマの獄中からテモテへの第2の手紙を書いたようです。そのあと、殉教の死を遂げたと言われています。テトスはクレテの監督として立てられた人物です。ギリシャ人でした。パウロの伝道によって回心した、いわば、パウロが信仰の生みの親でした。(1章4節、信仰による真実のわが子テトスと記されています)。テトスはどんな人物であったかというと、パウロやバルナバと一緒にエルサレム会議に出席した人でした。また、パウロの第3回伝道旅行の際には、パウロの代理として、コリントの教会に派遣され、エルサレムの貧しい人たちへの募金を行った人でもありました。パウロは、テトスをクレテに残して、残務整理をさせるためでした(1章5節)。その内容は、クレテ島の町ごとに長老たちを任命するという仕事でした。実は、クレテとは、100の町の島とも言われるほど、多くの町がある島でした。ですから、テトスの任務内容は、容易なものではありませんでした。ところで、クレテの教会の状況ですが、テトスへの手紙から推測すると、教会員の生活は乱れており、老人は怠け者で不謹慎であり、年老いた婦人は大酒飲みでうわさ話に明け暮れていたようです。また、若い女性も怠けもので身持ちが悪かったようです。これはクレテ島に住む人たちの民族性でもあったようです(1章12節、13節参照)。どうやら、キリストの福音による救いと実際の日常生活は無関係ものであると理解していたようで、新生したクリスチャンとは言えない生活態度でした。キリストの福音に反抗する者、ユダヤ教に固執する者、人を惑わす者たちもいました。こうしたクレテの教会の状況を憂えたパウロが、テトスに手紙を送り、創造主なる神の権威のもとに、教会の矯正を試みるように命じたものがこの手紙です。受取人はテトスとなっていますが、おそらく、クレテの教会のクリスチャンすべてに宛てて書かれたものと考えられます。1章では、長老たちを任命するための手引きを記しています(6節~9節)。長老たちの資格として、1.わがままでないこと、2.短気でないこと、怒りっぽい人は不適格、3.酒飲みでないこと、自制心のない人は不適格、4.けんか好きでないこと、すぐ手が出る人は不適格、5.不正な利を求めない人、・・・などがあげられています。意外にも、聖書を良く学んでいる人、良く祈る人、説教が上手な人、聖霊に満たされた人などという項目が挙げられていないことに気づきます。これらの資格は、当時の人にとっては当然の前提条件であり、わざわざ表現する必要がなかったのだろうと思われます。それにしても、健全な人格者であることが求められていたことが明らかです。また、反対者に対しては厳しく戒めるように命じています(10節~16節)。このテトスへの手紙に見られるように、パウロは、主の御計画の中で、次世代の働き人に着実にバトンタッチをしていくのでした。

清宣教師