ヤコブの手紙は、具体的で分り易いですね。きょうの2章に描かれているような、立派な身なりをした金持ちの人とみすぼらしい服装をした貧しい人が教会の玄関に立った時、どんな態度を取るのか、まさに、私たちの陥りやすい弱点をついています。ヤコブは、このような態度をとるなら、「自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか」と指摘しています。こういうところにも、クリスチャンとしてのふさわしい態度が試されているということです。成熟したクリスチャンになるとは、人を偏りみることなく、なにをすべきかを知っている人です(1節~4節)。ヤコブは、とくに金持ちの人たちに媚びるのではなく、彼らの本質を見抜いています。御国を受け継ぐのは貧しい人たちであり、富んでいる人たちではないことを指摘しています。だから、貧しい人を軽蔑するようなことがないように、くれぐれも注意しています(5節~7節)。そして、ヤコブは、「あなたの隣人を愛せよ」という最高の律法を実践する成熟したクリスチャンは、えこひいきをしない人であると指摘しています(8節~11節)。クリスチャンは自由の律法のもとで生活している者です。その中で最も大切なことは、憐みを示すことです。憐みのないものには、憐みのない裁きがあるだけです。憐みは、神の前に、とても大事なことです。なぜなら、自分自身が憐みをうけて赦されたのですから。もし、他人を赦さないと自分も赦されなくなってしまいます。つまり、他人を赦さないことは自分自身を神の裁きの前に追いやることであり、サタンが勝ち誇ります。一方、憐みは裁きに向かって勝ち誇るのです。憐みは神の裁きを退けるのです。(12節、13節)。成熟したクリスチャンの信仰には、信仰の実践が伴います。信仰は行いという実を結びます。そういう意味では、行ないのない信仰は、意味がないものです。ここで、少し、オヤッと思う方もおられると思います。聖書では、「私たちが救われたのは、行いによるのではなく信仰によるのです。神の恵みによるのです。」というみことばあるからです。しかし、ここで、ヤコブが言っていることは、このみことばと矛盾することがらではありません。信仰と信仰の実践(行い)は表裏一体です。例えば、アブラハムが、ひとり子のイサクを祭壇に捧げた時の信仰です。捧げることが、信仰の実践でした。だれでも、口先では良いことを言えますが、実践するかどうかが問われます。単に何かを信じるというのが「信仰」であれば、サタンでさえ、神はおひとりであると信じて震えおののいている、とヤコブは指摘しています。信仰が実践と分離するなら、それは死んだ信仰であり、意味がなくなってしまいます。キリストは、世を愛されました。そして、実際に、ご自分のいのちを与えられました。たましいを離れた体は死んでいるように、行ない(実践)のない信仰は死んでいると、ヤコブは指摘しています。おそらく、当時の教会の中でも、口先だけの信仰というのが、流行し始めていたのだと推測されます。それは、見るからに立派な服装をした金持ちと、みすぼらしい服装をした貧乏人が、教会に入ってきたときの、教会員の対応にも表れ始めていたのだと思います。金持ちと貧乏人でなくても、好きな人と嫌いな人に対する対応ということも考えられます。えこひいきのない信仰の実践です(14節~26節)。ヤコブの手紙は、まさに、分り易いメッセージですね。自分自身の信仰生活の本質が問われます。2章の結論は26節に記されています。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は死んでいるのです。」別のたとえで言えば、信仰と行いは、紙幣の表と裏のような関係です。真の信仰は、必ず、良き行いとして表面に現われます。また、真の行いは、真の信仰によって裏付けられています。そうでなければ、偽札です。

清宣教師