きょうはヤコブの手紙、3章です。今日の個所は、冒頭、教師について記されています。教師は、教師として要求される神の基準があり、それによって裁きを受けるというのです。それは格別厳しい裁きであると警告されています。多くの人に影響を与えるという点で厳しいさばきとなると考えます。「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。」と記されています。クリスチャンになっても、多くの点で、失敗するのは、確かに真実です。自分自身、体験していることです。その失敗の中でも、一番多いのは舌(ことば)による失敗です。巨大なタンカーも、小さな舵によって動く方向がコントロールされます。舌も小さな器官なのに、私たちの人生を台無しにする大きな力があります。ことばで失敗しない人がいるなら、その人は人生全体を制御できる完全な人です(2節)。不用意に捨てた煙草の吸殻の小さな火が、大きな森を焼き尽くすことがあるように、不用意に語られたことばが、大きな損害を引き起こすことがあります。憎しみの毒針、妬みの毒針などです。「しかし、舌を制御できる人は、誰にも出来ません。(8節)」と聖書は述べています。そのひとつの例として、創造主を賛美するクリスチャンが、創造主にかたどって造られた作品である兄弟姉妹を呪う(裁いたり、批評したり)ことばを同じ口から出してしまうのです。もしも、ひとつの泉だけなら、新しい聖霊様の泉から甘い水を出すか、古い肉の泉から苦い水を出すかのどちらかです。私たちの心の中に、敵対心やねたみがあるなら、苦い水をだしてしまいます。私たちは、キリストを信じて、聖霊様による新しい命の泉をいただいたのですから、敵対心や妬みを完全に捨てなければなりません。妬みや敵対心は、天から来たものではないからです(15節)。天からのものは、第1に、純真であり、次に平和、寛容、温順だからです(17節)。また、あわれみと良い実に満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです(17節)。

ところで、ニュートンの少年時代の逸話が残っています。中学時代、ニュートンは、誰も作ったことがない、水車を利用した粉ひき機械を創りました。川の水が水車を回し、うすの中で粉が出来ていきました。ニュートンは鼻たかだか(高慢の表現)でした。悔しがる友達は、ニュートンに対して、「じゃあ、水車の力がどうして、粉をひくのか、説明してみろ!」と言いました。それに対して、ニュートンは説明することが出来ませんでした。そこで、友達は、「わけもわからないのにただ作るのなら大工だって出来る」と言いました。そうすると、周りの友達がみな、そうだ。そうだ。そんなの誰にだって出来ると言って、ニュートンのお腹に蹴りをいれました。ニュートンは倒れて起き上がれなくなりました。それ以来、ニュートンは何を作るにも、作るだけでなく、どうしてそうなるのかを説明できるまで勉強しました。実際に作るだけでなく、その理論をきちんと説明できるようになったのです。後に、ニュートンは、もしあの時、自分のお腹を蹴られていなかったら、私の一生は変わらなかった。お腹を蹴られえて、自分の一生が変わったと述懐しています。背後にある法則をみるように変えられたのです。私たちは失敗するものです。しかし、その失敗と思えることが、益となり、私たちを変えるのです。上からの知恵を求める者に変えられるのです。

きょう、聖霊様が私たちの内に働いて下さり、平和の実、愛の実、喜びの実を結ばせてくださいますように。清宣教師