13章では、反キリストが凶悪な獣として登場し、人類はどん底の状態にありました。しかし、14章では、突然、光景が一変します。子羊(主イエス)がシオンの山の上に立っていました。人間の絶望は神の働きの始まりです!柔和な子羊が立っていました。獣は恐怖を与えますが、子羊は誰もが抱いてみたいと思うような可愛らしい存在です。シオンとは聖なる都エルサレムのことです。神の定めの時に、子羊はシオンの山の上に立ちます。これは天上の山ではなく、地上のシオンの山を指しています。エルサレムの平安な姿を指しています。ここで、天からの賛美と地上の14万4千人の賛美が、大患難時代の最中にとどろき渡るのです。ユダヤ人の救いの初穂である14万4千人の人たちの額には子羊の名と父の名が記されていました。名前は、御子と御父のご性質を宿していることを意味しており、聖霊様が宿られていることを示しています。天からの声は大水の音のようであり、激しい雷鳴のようでもありました。しかし、それは竪琴をかき鳴らしている音色のようでもありました(不思議ですね!)。イエスを信じる人たちの心には、妙なる賛美のように響いたのです。それで、彼らは新しい歌を歌いました。誰も知らない新しい歌とは、どのような種類の賛美なのでしょうか。地上では経験できない天上の喜びが、その賛美の基礎を成し、唇が自由に開いて歌となることを表している、と解釈する人もいます。彼らはいつも小羊なるイエスと共にいるのです。また、彼らは童貞(女性との肉体的な関係を持たない人たち)である、と記されています。この世の性愛を断ち切って献身する姿勢を著しており、童貞という表現をもってキリストに対する信仰者の献身の極みを表現したかったのだと思われます。彼らこそ、徹底して主キリストに従った人たちでした。彼らは父なる神の御座と4つの生き物と長老たちの前で新しい賛美を捧げたのでした。さて、次に、ヨハネは中天を飛ぶ御使いを見ました(6節)。御使いは、地上の全ての人に永遠の福音を宣べ伝えました。「天と地と海と水の源を創造した方を拝め」という福音です。福音とは、「良きおとずれ」のことです。イエス様は、かつて多くのたとえ話の中で「御国の福音」を宣べ伝えました。また、初代教会の使徒たちは、「キリストの福音」(コリント人への手紙、第2、2章12節)、あるいは、「神の福音」(テサロニケ人への手紙、第1、2章2節)を伝えました。ここでは、御使いが「永遠の福音」を伝えた、と記されています。天地万物を創造された主を礼拝するようにとの命令です。この世の終わりである、最後の審判を目前にして、創造主なる神を、心から礼拝するようにとの命令です。これこそ、天地創造以来の祝福の土台であり、新天新地の祝福の土台でもあるのです。まさに、永遠の福音です。次いで、第2の御使いが、「大バビロンは倒れた」と宣言しました。ついで、第3の御使いが、獣の像を拝んだり、自分の額か手に刻印を受けるなら、裁きを受けるという警告を伝えました。大患難時代において信仰を保つには忍耐が要求されます。この時代における殉教者の死は、安息であり、ご褒美です。殉教者が相次ぐ中で、天からの慰めのことばが語られました。「今からのち、主にあって死ぬ死者は幸いである。」(13節)。それは、この地上における激しい迫害と労苦から解き放されて、天において平安の中に休むことが出来るからです。さて、最後の14節~20節において、2種類の刈り入れについて述べられています。第1の刈り入れは、人の子(キリスト)によって行われます(14節)。ここでは、実が良く稔っている地の穀物、良く実っている穂が刈り取られます。つまり、キリストを信じて良き信仰の実を結んだ、真の信仰者たちの刈り入れを意味しています。雲に乗っておられるお方、つまり、キリストご自身が刈り取りをなさいます。この最後の審判については、マタイの福音書13章24節~30節に、イエス様ご自身が語られたたとえ話として記されています。そこでは、まず、実った麦(信仰者の魂)が刈り取られて蔵(天の御国)に納められ、ついで残った毒麦(不信者の魂)が刈り取られて火(地獄)に投げ込まれ焼き尽くされてしまいます。ここでも、最初は信者の魂の刈り取り、次に不信者の刈り取りがなされています。第2の刈り入れは、御使いの手によってなされます(17節)。ここでは、毒麦ではなく、地の葡萄の房として表現されています。それは天の蔵に納めるためではなく、地上の酒ぶねに投げ込まれます。つまり、地上で互いに殺し合い滅ぼし合うのです。それで、その血は、あふれ出て1600スタディオン(約300km)に拡がったと記されています。恐ろしい光景です。

清宣教師