さて、いよいよ最後の黙示録22章です。引き続き、御使いがヨハネを案内してくれました。新しいエルサレムの大通りの中央には、水晶のように光るいのちの水の川がありました。それは父なる神と子羊(御子イエス様)の御座から出ていました。水晶の輝きをもつこのいのちの水の川の両側には、いのちの木が植えられていました。いのちの木には、毎月、12種の実がなりました。世界の最初のエデンの園では、創世記2章9節に記されているように、いのちの木は一本だけでした。しかし、この新天新地の新しいエルサレムでは、多くのいのちの木が備えられています。毎月、あらゆる種類の実がなり、いのちの木の葉は、諸国の民をいやすものでした。誰でも自由に食べることが出来ます。そのしもべたちは、神に仕えます。彼らは永遠に王である(5節)と記されていますから、神の御子に永遠に王として奉仕するようです。地上での奉仕は、人間的な不完全なものが含まれますが、天においては、完全な奉仕者として神に仕えるようになります。彼らは、神の御顔を仰ぎ見ます(4節)。神の栄光を仰ぎ見る時、彼らの内側に神の栄光が差し込み、内なる鏡に栄光を写し、その栄光が外へと輝き出ます。6節以降、御使いがヨハネに対して語ったことばを紹介しています。第1のメッセージは「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」(6節)という、みことばが真実であるという内容でした。第2のメッセージは、「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」という、終末の緊急性と明確な指示がなされています。第3のメッセージは「やめなさい。・・・神を拝みなさい。」という警告でした。ヨハネが感極まって天使を礼拝しようとしたときのことでした。第4のメッセージは「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」でした。黙示録を難しいとか、理由をつけて無視したり、放っておいてはいけない、と警告されています。第5のメッセージは、「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」です。主は必ず、正しい審判をもって来られると約束されています。第6のメッセージは、「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」と、ご自分の御名を明白に宣言しておられます。いつどこにあっても、キリストこそ、私たちの希望の光です。17節で、「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」と強く勧めています。私たちクリスチャンは、主の再臨を信じているのですから「来てください」と口で告白するように勧められています。また、渇く者には、無償でいのちの水が提供されるのですから、「ただ信じて、受けなさい」と勧めています。最後に、ひとつの警告が発せられています。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」みことばは完璧であり、人間の考えで加えたり、差し引いてはならないのです。それを破るなら、永遠のいのちを失うことになる、と警告されています。そして、最後の最後に、再び、イエス・キリストご自身が証言しています。「しかり。わたしはすぐに来る。」。それで、私たちも、間髪を入れずに、「アーメン。主イエスよ、来てください。」と応答すべきなのです。最後は、祝祷で閉じられています。「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」

きょうは、1日1章の最後の個所、黙示録22章でした。3年半の長い間、創世記1章から黙示録22章まで、お付き合いいただいたことを感謝します。この地上での人生の最後を終えて扉を開ける時、それは、新しい御国への入り口の扉を開けることになります。同様に、きょう、聖書66巻の学びを終える時、新しい創世記1章という学びの扉が開かれます。明日からまた、新しい1日1章の始まりです。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119篇105節)。何が起こっても、神のみことばの土台に立つことが出来るように、ご一緒に、神の永遠の計画を学びましょう。

清宣教師