21章に入ると、以前の天と以前の地は消え去り、新しい天と新しい地とが現われました。新天新地は、創造主なる神が最初から目指していた世界であり、創造主なる神とすべての被造物が一つになる真の平和と幸せの世界です。そこには海はありませんでした。これは以前の、つまり現在の世界とは大きく異なる点のひとつです。ヨハネは、そこで、聖なる都エルサレムが天から下って来るのを見ました。それはあたかも夫を迎える花嫁のように飾られていました。夫はキリスト、花嫁は教会のことを指しています。御座から大きな声がして、聖徒たちに対して、「神の幕屋が人とともにある。・・・もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しもない。」と、神ご自身からの永遠の慰めのことばが語られました。また、「見よ。わたしは、すべてを新しくする」という完全な回復の約束の宣言がなされました。神のみこころが100%、反映されており、一点の悪意のかげりもありません。現在の罪のもとにある世界を経験している私たちが、自分の感覚や経験で読むなら、間違って理解してしまうことでしょう。罪のない、聖なる神の栄光に満ち満ちた新天新地が現実のものとなるのです。その完成された世界を、神ご自身の栄光によって照らすので、もはや夜はありません。死も、悲しみ、叫び、苦しみもありません。愛と恵みと慈しみの栄光が、すべての被造物を覆うのです。ここでは第1に、キリストと教会は、花婿と花嫁の婚姻の関係であり、第2に、7節のことばのように、父なる神と聖徒たちは、キリストを通して、父と相続関係に置かれること、親と子の関係にあることが宣言されています。そのあと、10節で、御霊は、ヨハネを、大きな高い山に連れて行きました。そこで、聖なる都エルサレムが神のもとを出て天から下ってくる様子を見せられました。都には神の栄光がありました。その輝きは高価な宝石の輝きに似ていました。透き通った碧玉のようであったとは、エルサレムが素晴らしい発光現象を伴って出現したことを表しているようです。聖なる都には城壁があり、そこに12の門がありました。城壁は、過去においては敵の侵入を防ぐために設けられていましたが、新天新地ではもはや攻撃する敵はいませんから、ここでは天の都の威厳を示すためにあると思われます。門にはイスラエルの12部族の名前が記されていました。それは、ここを通る者たち、とくに異邦人出身の者たちもみな、神とイスラエルへの感謝を覚えるためと考えられます。一方、土台石には、12使徒たちの名前が記されていました。12使徒たちの名前も永遠に記念される者であり、全ての人たちが福音を伝えた12使徒の働きに感謝を覚えるためと考えられます。ところで、聖書の中では「12」という数字は、選ばれたものの数字を表しています。イスラエルの12部族、イエス様の12人の弟子たち、12×12で、144となります。これは聖なる都が、選ばれた者たちのためのものであることを示しいると思われます。都は立方体(あるいは、ピラミッド型と解釈する人もいます)で、その一辺は、1万2千スタディオンでした。およそ、2220km(北海道から九州くらいまでの距離)です。また、144ペーキュスとは、約64.8mです。都そのものは、純粋のガラスにも似た純金で出来ていました。都の城壁の土台石は、12種類の宝石で飾られていました。ここに出てくる宝石は、かつて大祭司の胸のエポデにしっかりとつけられていた宝石と同じです(出エジプト記28章17節~20節)。12の門は真珠で出来ています。真珠は異邦人を示すからと考える方もいます。都には、神殿はなく、神と子羊ご自身が神殿でした。立方体の都の真ん中に、神の御座があります。父なる神と御子イエスの栄光がすべてを照らす光であり、暗やみは存在しません。その輝きは21章11節に記されていますが、高価な宝石に「似ており」、また透き通った碧玉の「ようで」あったと記されています。高価な宝石そのものでもなく、碧玉そのものでもありません。神の栄光を強いて表現すると、この地上での最も高価な宝石のような輝きに見えたということを表しています。つまり、どんなものをもってしても、神の栄光を表現することは難しいのです。都の門は終日、閉ざされることがありません。いつでも自由に入れるのです。安心ですね。ただし、小羊のいのちの書に名が書いてあるものだけが入れるのです。私たちの名も、小羊の書に記されています。そうです。やがて、私たちも、この地上での生涯を終える時、主の栄光を仰ぎ見ることになります。主に心からの感謝を捧げます。

清宣教師