出エジプト記28章は、聖書の中で、私の大好きな個所の一つです。大祭司は、主イエス様の型です。「イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」(へブル人への手紙、6章20節)。「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。」(へブル人への手紙、7章24節~28節)。そして、こう述べています。「以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」(へブル人への手紙、8章1節、2節)。「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。」(へブル人への手紙、9章24節)。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」(へブル人への手紙、10章19節)。旧約聖書、とくに、出エジプト記に記されている大祭司は、天にある本物の聖所で、大祭司としての働きをされている神の御子イエス・キリストの型です。ですから、大祭司の装束は、神の御子を象徴するのにふさわしい「栄光と美を表す聖なる装束」(28章2節)でなければなりませんでした。この大祭司の両肩には、しまめのうの宝石がつけられていました。そして、その宝石には、6部族ずつ、二つの宝石で全12部族の名前が刻まれていました(28章7節~12節)。イスラエルの民は、つねに、主の肩に負われていることの象徴です。イエス様は、100匹の羊の例え話において、失われた一匹の羊を両肩に背負って帰られた羊飼いの話をされました(ルカの福音書、15章4節~7節)。肩とは、主の力によって担われていることを示しています。また、大祭司の胸には、胸当てがあり、その上に、金の枠に12個の宝石がはめ込まれており、そのひとつ、ひとつに、各部族の名前が刻まれていました。全イスラエルの部族の名前が記されている12個の宝石は、つねに、大祭司の胸に、ずり落ちないように、しっかり固定されていました。つまり、大祭司であるイエス様の胸(愛の象徴)には、いつも、私たちひとりひとりが、尊い宝石として、覚えられているのです。刻まれているとは、永遠に覚えられているということです(イザヤ書43章4節、イザヤ書49章15節~16節参照)。出エジプト記を理解するには幕屋に関するイメージ(図)が、大変、役に立ちます。大祭司の衣装のイメージ(図)もあります。1日1章の参考資料「旧約聖書の幕屋のガイド(プリント5枚)をご利用ください。必要な方には郵送します。遠慮なくお申し込みください。ところで、大祭司の胸の純金の板にはめ込まれた宝石を思い起こしてください。そこには名前が刻まれています。あなたもその宝石のひとつです。救い主イエス様は「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」と宣言されます。私も主を愛し、尊敬し、礼拝します。きょう、どうぞ、あなたの愛する者を癒してください。全ての病、すべての思い煩いから解放して下さい。清宣教師