21章は、「アロンとその子ら」に語られています。つまり、祭司職に関する規定です。
1節~9節は、祭司の葬儀と結婚に関する規定です。
10節~15節は、大祭司の葬儀と結婚に関する規定です。
16節~24節は、身体的欠陥のある祭司に関する規定です。
どの場合においても、ひとつひとつ、細かく指示されています。その理由は、祭司は一般の民と異なる立場にあったからです。じつは、イスラエルの民そのものが、特別の民でした。出エジプト記19章5節、6節には、「今もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものだから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」と言われたのです。全世界に対して、まことの主なる神の証し人としての役割を果たすところの宝の民であり、祭司の王国、聖なる国民として選ばれたのです。ですから、イスラエルの民の中で、特に、主のために聖別された祭司や大祭司はとくに聖なるものであることが要求されました。それゆえに、汚れから離れて、聖であることが要求されたのです。17節~23節では、身体的な欠陥のある場合は、祭司として奉仕することは許されませんでしたが、最も聖なるものでも食べる特権は与えられていました(22節)。これらの規定に関して、疑問を持つ方もおられると思います。ただし、これらは、旧約における規定であり、今は、キリストのいのちによって贖われた者たち(クリスチャン)はすべて祭司の奉仕と特権にあずかることが出来ます。
ところで、旧約では外観で象徴される欠陥により、奉仕から除外されましたが、新約時代においては、聖なる者としての要求は、旧約時代の祭司たちよりも、遥かに高いレベルが要求されています。どういうことかといいますと、旧約時代は、外面的な行動が基準でした。例えば、「殺すな」「姦淫するな」「偽証するな」・・・などなどです。人の目に触れなければ問題にされませんでした。しかし、イエス様は、内面的な動機を基準にされました。「だれでも心に憎しみを持つ者は、人殺しに等しい」「だれでも心に情欲をもって見る者は姦淫の罪を犯すに等しい」などなどです。決して、聖なる基準が廃棄されたわけではなく、キリストの血潮によって買い取られた者には、完全であることが要求されているのです。聖書全体を通じて、「神の御子の似姿に似る者となる」という究極の目標が明示されているのです。それは、自分自身の努力によっては達成されません。日々、御霊なる神の働きに委ねることによって成就します。御霊に委ねて、神の似姿へと変えていただくのです。
清宣教師