バラムは、イスラエルを祝福することが主の御心にかなうのを知って、その顔をイスラエルがいる荒野のほうに向けたとき、すぐに、神の霊が彼の上に臨みました(1節、2節参照)。私たちも、主のみこころに対して無関心である時、あるいは無視している時は、聖霊様が臨むことは難しいけれども、主のみ心に対して心開き、悟るときには、聖霊様が臨みやすい状態にあることが分ります。具体的には、父なる神様の限りない愛について黙想する時、あるいは、イエス様の十字架の救いや一方的な恵みについて黙想する時、聖霊様が臨みやすい状況に、自分を置くことになります。忙しさから離れて、黙想する時をもつようにしたいです。御霊に満たされなさい、と命じられています。私たちが御霊に満たされることは、とても大事なことです。なぜなら、生まれつきの肉の性質は、神のみこころに抵抗し、私たちを神のみこころから引き離そうとするからです。そしてその力はとても強いのです。ですから、私たちは、いつも、御霊に満たされる必要があります。私たちのこころを、父の愛、御子の恵みに焦点を合わせて、聖霊様の満たしを受けやすい状態に保ちましょう。
バラムが主から授けられた祝福のことばは、素晴らしいものでした。しかし、それは、バラクを怒らせました。バラクは雇われ呪術者が、自分の意のままに、イスラエルを呪うことを期待していましたが、その期待は裏切られました。それで、バラクは、「今、あなたは自分のところに下がれ。私はあなたを手厚くもてなすつもりでいたが、主がもう、そのもてなしを拒まれたのだ。」と勝手な言い分を述べて、バラムへの報酬をキャンセルしてしまいました。バラムは、そういう意味では、せっかく、出張サービスしたのに、報酬は得られなかったのです。
そこで、バラムは、今度は報酬目当てではなく、主からのことばを語ります。15節~24節です。モアブ、エドム、アマレク、ケニ人の将来について預言しました。こうして、主は、敵の雇われ呪術者をも用いて、ご自分の計画を遂行されました。
このあと、バラムについては、31章8節と16節に、その名前が登場するだけです。具体的には、次の25章のバアル・べオル事件の報復として、ミデヤン戦争において、剣によって殺されたのでした。新約聖書(ペテロの第2の手紙、2章15節、ユダの手紙11節)によれば、バラムは、イスラエルを不品行に誘惑する策略をモアブやミデヤン人に授けて、不義の報酬を得たと述べています。その報いが、剣による処刑でした。
私たちは、主なる神の主権によって守られています。しかし、私たちの敵であるサタンは、不義の報酬を愛したバラムのように、私たちの肉の弱さにつけこんでくることが多いのです。具体的には25章に、その手口が記されています。ですから、聖霊様の助けがどうしても必要です。神様の主権の中から迷い出て、自分の力で立つときに、いとも簡単に、肉の弱さにより、サタンの手中に落ちてしまうのです。
今日も、イエス様の十字架の恵みを感謝します。父なる神様の愛をほめたたえます。私たちは神のこどもたちです。私たちを聖霊様によって満たしてください。
清宣教師